IndexNovelまるで空気のような

1.その前夜

 分量をきっちりと量った材料を準備して、麻衣子は慎重に作業に乗り出した。
 ボウルを持ち泡立て器を使うその手も手慣れたもの。チョコレートを刻み湯煎にかけて、それにバターを混ぜ込む。綺麗に卵黄と卵白を分け、メレンゲを作り――それからそれから。
 目の前に下げたレシピを時折確認し、手際よく作業を進めながら。
 考えるのはただ一人のことだった。



 その人はまるで空気のような存在だった。
 生まれたときから家が隣同士、物心着いた頃から一緒に過ごしていればそうなるのもごく自然だ。
 家族以外で最も長い時間を過ごしたのは間違いなく彼だから、そばにいるのはごく当たり前のことだったのだ。
 小学生の頃はランドセルを並べて一緒に登校したものだし、思春期にさしかかった中学時代もお互い気にせず一緒に通っていた。
 まるで空気のように、そばにいるのが自然な存在すぎて、だから本当に気にしたことがなかったのだ。周りはあれこれ言っていたけれどそんなこと二人とも気にしないで、長年で習慣化していた行動を繰り返していただけ。
 それは奇跡に近いことだったのだ――そう、今となれば思う。当たり前の日常は失って初めてその価値に気付くものなのだ、きっと。
 失うきっかけはほんの些細なことだった。
 もう一年近くも前、高校に入った直後。一緒に登校できなくなってから全てが変わってしまった。
 何度思い返しても、そこには他意がない。
 高校が違ってしまったわけではない。一緒の高校に進んだわけもお互い推察できるくらい、理由は明確だった。
 もう少し上を狙えないというわけじゃなかったけど、家の近くにあるところが通いやすくていい。
 だから入学当初は当たり前のように肩を並べた。それが半月ほど続いた後で彼が体育祭の実行委員になって、朝の会合があるから登校の時間がずれた。
 ただそれだけのことで、全てが変わってしまったのだ。
 クラスも違っていたので、登下校の時間が少し変わっただけで隣の家の幼なじみとほとんど会わなくなった――そんな事実は入学直後の慌ただしさで全く意識しなかった。
 まるで空気のように自然に隣にいた相手だからそれまで特に気にしていなかったのに、気にしはじめてしまったのはそれから。
 体育祭が終わっても慣れ親しんだ日常は戻らず、お互いほとんど声をかけることが無くなった六月の始め。
 友人と笑い合う彼を見て近寄りがたさを覚えて、同時に強烈な寂しさを覚えた。気のせいだと何度思ってもその思いは強さを増すばかり。
 だからと言って「寂しいからかまって」なんて言えなかった――無駄に高いプライドがそれを許さない。
 時間が過ぎるほどに声がかけづらくなって、それを後押しするように彼の近くの女の子に気付いた。飛び抜けてきれいで、おとなしい人。
 そこでようやく自分の気持ちに気付いてしまった。



 けして鈍くないと自負していた自分の失態に麻衣子は舌打ちしたい気分だった。だけれど気付いたところで自分から声をかけるなんて考えられなかった。
「私を見て」
 けして短くはない時間を経て、どんな顔をしてそんなことを言えばいい?
 だから彼女は何も言わなかった。その代わりに密やかに行動に出た。
 これまでになく身だしなみに気を遣うようにしたし、教師にばれない程度に化粧もしはじめた。
 中学時代よりもきれいになったと自ら思う。それでも彼の視線の先にいるらしい女の子には遠く及ばないけれど。
 自分で声をかけなくていいように、向こうに声をかけてもらおう。他力本願だけど、その方針の下に頑張ったのだ。でも、どれだけ努力しても彼が気にした素振りがないのが悔しかった。
 一度向こうから声をかけてもらおうと行動に出た以上、今更自分から声をかけるのは我慢できなくて。
 そんなくだらないプライドを盾にしているうちに半年以上経って、ますます二人の間の距離は広がった。
 たまに顔を合わせてもろくに会話ができないことにしびれを切らし、待っているだけでは何にもならないと遅まきながら悟ったのは年が明けてから。
 そうして思い出したのだ。ちょうどいい機会の存在――バレンタインデーを。
 それに気付いて一ヶ月と少しは本当に長い時間だった。
 お菓子を作るのはいつでもできる。幸いにして料理は好きだ。
 長いように思える時間を何を作るか思考することで費やし、彼女はその日を迎えた。
 二月十三日を。
 この日にお菓子作りをするのは別に不思議な事じゃない。これまでだってなんだかんだ言いながら何かを作っては父親に振る舞い、そしてついでだと甘い物が苦手な彼にも持って行っていたのだから。
 一つだけこれまでと違うのは、義理でなく本命の意味で彼に持って行くこと。
 あまりに隔たりができてしまった今、それは酷く勇気の伴う行為だけれど。でも、何でもない顔をしてそれをこなすつもりだった。
 さりげなく、何気なく。
「毎年あげてたから、ついでにね」
 なんて。そんな風にごく当たり前の顔をして言ってやるのだ。



 浅ましい願いと気合いを込めて焼き上げたチョコケーキを冷ましてから薄くスライスしてその間にジャムを塗り込む。
 沸騰した生クリームに投入して溶かしたチョコを思い切ってケーキの上からかけて、できるだけ見た目がよくなるように手早くのばし固める。
「――ま、こんなもんよね」
 多少見た目が不格好なのは手作り故に仕方ない。それでもまあまあ、いいものができたと思う。
 彼女は満足げに一つうなずいて、冷蔵庫で冷やしたそれに慎重に包丁を入れた。
 均等になるように注意して八つに切って、その半分を別の皿に載せる。
 ラッピングなんてしない。いきなり本命らしく持って行ったら彼が驚く。毎年の恒例行事をごく自然にこなして、結果としていつもより話せるだけで充分だ。
 少しだけおしゃれなお皿にラップをして、いかにもご近所さんへのお裾分けの体裁。
 さああとは明日の晩にこれを持って行くだけだ。

2006.02.13 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

INDEX NEXT→

感想がありましたらご利用下さい。

お名前:   ※ 簡易感想のみの送信も可能です。
簡易感想: おもしろい
まあまあ
いまいち
つまらない
よくわからない
好みだった
好みじゃない
件名:
コメント:
   ご送信ありがとうございますv

 IndexNovelまるで空気のような
Copyright 2001-2009 空想家の世界. 弥月未知夜  All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.