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一章 1.教育係の苦悩
ウィアン・ウォークフィードは、エルムスランド王国一の博士だった。
その専門分野は多岐にわたる。
歴史・地層学・神学・数学・魔法学……とにかく気の向くまま思いの向くままで、様々なものに手を出してはそのほとんどの分野で世界有数の権威となった。
天才肌なのか、勉強に付随するはずの苦労とはこれまでずっと無縁だった。
そのウォークフィード博士ではあるが、数年前はじめて挫折を味わった。
それは残念ながら今だ克服には至らない。
後に自伝で彼はこう記述する。
『我が前に立ちふさがったのは山よりも高い壁か、あるいは海より深き溝であったように思う』と。
はじめての挫折はさしもの天才博士も簡単にどうにかできるものではなかったのだ。彼の才を羨み妬むものなら「いい気味だ」と嘲笑したかもしれない。
だが実際は彼の挫折を知るものは皆無だった。それがウォークフィードの挫折と思うものは、その中にいなかったからそれを挫折だと思うのはウォークフィードただ一人だった。
彼は様々な肩書きを持っていたが、大層な肩書きの割りには若かった。
とはいえ、もう四十になるが。
見た目は若者だったから、彼の年齢をよく知らないものは驚嘆する。魔法に手を出したせいだろう。もしかしたら神学が原因かもしれない。
魔法使いと神官の寿命は普通より長い――その理由の研究も彼の大事なテーマだった――手を出したおかげで老化速度が鈍ったのは御の字だ。
それだけ長く研究ができる。いくつもの研究を抱えた彼だから、時間との戦いは切実だった。
もっとも、挫折を味わったせいで最近はどの研究も滞っていた。
内心嘆息。
今、彼の目の前に挫折はいた。
その姿は愛らしい少女そのものだ。栗色の波打つ髪、深い闇色の瞳――――。
まだ少女と言って差し支えはなかったが、数年中には美しい女性と呼べるようになるだろう。
「いい加減に話を聞いて戴きたいのですが」
言っても無駄なことを言ってみる。それに彼女がまともに応じた記憶は残念ながら皆無だ。
彼女は彼のニ番目の生徒だった。
(そして、恐らく最後の……だ)
最初の生徒に比べて彼女は手がかかりすぎる。
彼女が一般的な生徒だというなら――誓おう。金輪際生徒はとるまい。
堅く心に誓っているウォークフィードである。
手のかかる生徒の名はレスティー・エルムスランドという。その名は実はもう少し長いのだが、ウォークフィードにそれを知る権限はない。
名の示すとおり、彼女はかの英雄王ナーインアクダ・エルムスランドの血を引いている。
エルムスランドの現第五七代国王サナヴァ・エルムスランドの一人娘――王女だ。自動的に王位継承権を所有している。順当に行けば彼女が王位を継ぐのだろう。
……ウォークフィードはそのことに果てしない不安を覚える。
王女は手のかかる生徒だったが、けして頭は悪くない。それを信じたいウォークフィードだ。
実際、彼女には素質はあるはずだとウォークフィードは思う。ただ、こう――のんびりとしすぎているのだった。
大体が、必死にウォークフィードが説明するのをぼうっ、と聞いている。聞いているのかいないのかよくわからないが、十中八九、聞いていない。そう思う。
ただし、興味を引かれたときにはたいした集中力で、そういうときだけは聞いた質問に完璧に答える。普段のぼうっとしたのが嘘みたいに。
ちなみに、あまり興味のもてないらしい事柄には、散々な返答が返ってくる。集中力にムラがあるのか、どうなのか……のんきに構えて、独特のペースで生きているのがその敗因ではないだろうか?
そのペースが、未だウォークフィードにはつかめない。
住む世界が違うのだと思う。別に、身分の問題ではない。本当に住む世界が違うのだ。彼女は人の何分の一のペースで生きているのか……
(ふむ。すると、私の説明は早すぎるのだろうか?)
何となく気付いて、心の気付きメモに記す。
(次はもう少しゆっくりと教えたらよいのかもしれない)
今度は心の実験メモに書き加える。
しかしゆっくり教えるといっても、聞いているときは聞いているのだし効果があるのかないのか――ウォークフィードは考えないことにした。
彼女の事に関して言えば、結果が出ない限りは推論しても意味がないと思っている。
一度も求めた結果が返ってきたことはないのだ。効果があろうとなかろうと、やってみて結果が出るまでやめるつもりはない。
はじめての挫折(自称)に意地になっているのだ。そのおかげで、最近は研究に全く手が付かない。
「そろそろ終わりにしましょうか?」
次への課題――スローペースな授業の構想をすでに頭の中で練りはじめながら、ウォークフィードは言った。
数瞬の間。姫君は答えない。
その前に扉のノックの音が聞こえて、返答も待たずに開く。
「失礼致します」
授業中は人払いがしてあるこの大図書室をノックのみで開くのは、王宮内でただ二人だった。
「そろそろお時間ですわ、姫様。ウォークフィード先生」
侍女姿の少女が扉の外に立っていて、にこやかに言う。
「ああ、フィニー君」
ウォークフィードはほっとした。
「あら、フィニー」
「お迎えにあがりましたわ」
「もう、そんな時間ですかぁ」
おっとりという王女にフィニーと呼ばれた少女は苦笑する。
「はい」
王女――レスティーはゆっくりと立ち上がった。
「ではでは。先生。ありがとうございました」
ゆったりと頭を下げる。
「はあ。いえ、どういたしまして」
いつものように王族に頭を下げられていつもと同じくしどろもどろでウォークフィードは答えてしまう。どれだけ回数を重ねても、これだけは慣れないのではないかと彼は思う。
「またお願いしますねぇ」
にっこり極上の笑顔を残して王女は去っていく。
どの辺がありがとうで、またお願いしますと思っているのか、彼女の話を聞く体勢からは全くわからないことも数年来ウォークフィードを悩ませる疑問だった。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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