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一章 4.王女の憂鬱

 レスティー・エルムスランドには、ただ一つだけ不満に思っていることがあるのだった。
 ただ一つそれだけを除けば、あとは不満はないといっていい。
 幸せな人生だ。そのことは間違いないのだが。
「姫様! 聞いてらっしゃいますか?」
 エルラの声にレスティーは反射的にうなずきを返した。うなずきを受けて、さらにエルラの小言は加速する。
 ため息を一つ。唯一不満に思っていることの解決を試みたことはたくさんある。
 すべて、涙をのんで諦める羽目になった。
(なんで、みんな私のことを名前で呼んでくれないのでしょう――)
 レスティーは自分の名前のことをずいぶん気に入っているのだった。ただ、周囲は名前で呼んでくれない。



 とりあえず、その不満を父にぶつけてみた。父の返答はこうだった。
『うん? なんだい我が娘よ。そんなことを気にしているのかい? 気にすると可愛い顔が台無しだ』
 我が娘と言う呼び方を変えるつもりはさらさらないらしかった。



 母はこうだった。
『呼び方、ですかぁ?』
 難しい顔をして、母は沈黙した。
『一度習慣づけた呼び方を変えるのって、大変ですよねぇ?』
 「習慣づいた呼び方」とやらにレスティーはさっぱり思い当たらなかったが、どうやら努力してくれそうにない。



 フィニーは困った顔をした。
『うぅん……それはちょっと……私の主義に反しますから……』
 主義ってなんなんだろう?よくわからなかった。もう一度強く頼むと――フィニーは甘いので願いをかなえてくれるかもしれない――こう答える。
『努力はします……』
 努力が実を結ぶ日は来るのだろうか?



 エルラは断固として答えた。
『姫様は姫様で姫様だからして姫様なのです』
 さっぱりわからないが無駄なのだけはわかった。



 ウォークフィード博士は眉を寄せた。
『出来ません』
 簡潔な答えに決意がにじんでいた。



 自分のことを名前で呼んでくれる人もいないでもなかった――ただしそれは他国の人々だ。
 自国の人々は『姫様』『王女様』……名前で呼んでくれる人はいない。
「このままでは、自分の名前を忘れそうです〜」
「……はい?」
 いきなり呟くレスティーをびっくりしてフィニーが見つめる。
「あの、姫様?」
「世の中で何人くらいの人が私の名前を知っていてくれるのかしら?」
「……ええっと……」
 フィニーが困った顔で沈黙する。無論レスティーだって知っている。自分のフルネームを知っている人なんか両手の指も余るくらいしかいない。
(だって、私も覚えてませんもの)
 自慢にもならないが。
 でも、レスティー・エルムスランドという部分だけでも知っている人はそういないと思う。
「あの、どうなさったんですか?突然」
 エルラとレスティーとを見比べながらフィニー。
「レスティーって、可愛い名前と思いませんか?」
「ええと……そうですわね。いいお名前と思いますわ」
「本当にそう思ってますか?」
 レスティーは勢い込む。
「本当はどこかおかしいから、だから名前で呼んでくれないんじゃないですか〜?」
「どうしてそうなるんですの?」
 レスティーの勢いにフィニーは首をかしげる。
「だって誰も名前呼んでくれないんですもの。このままでは自分でも自分の名前を忘れてしまいますよ、絶対。私ならやりかねないですぅ」
「そんなこと言い切らないでください……姫様……」
 情けない顔でフィニーが漏らすのにぶんぶんレスティーは首を振る。
「いいえっ。やりかねないのです。だから、フィニー、私のことはちゃんと名前でレスティーと呼んでくださいっ!」
「ですから努力はしますとお答えしているじゃないですか……」
 レスティーはかつてないくらいきりっとした顔でフィニーを見つめた。
「うっ。涙ぐまないでくださいまし。ほだされてしまうじゃないですか。姫様」
「レスティーです」
「ですから、姫様……」
「レスティー」
「姫さ――」
「レスティー」
 フィニーは救いを求めてエルラを横目で見た。相変わらずお小言が続いている。
 周囲の……というかレスティーとフィニーのことはちっとも目にはいってないらしい。
「フィニー、いいですかぁ? レスティーです、レスティー」
「ですから、努力はいたしますから」
 素直にそれに従えば話は早いのだろうが……それを半ば悟りつつもフィニーはそう答え続ける。
 小言を言い続ける護衛の横で、意味のない問答を続ける姫君と侍女。
 エルムスランドは今日も平和だった。少なくとも姫君の周りだけは。

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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