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1.社内恋愛は想定外

 自分が社内恋愛なんていうものをするなんて、過去の俺はまったく、これっぽっちも想像なんてしていなかった。上司に何故か見込まれてあっちこっち飛ばされている状態で、いずれ本社でそれなりのポストも夢じゃないと言われればどうしたって仕事に熱が入る。どこまでも登りつめたいと思うほど大きな野望は持ってないし自分がそこまでの才覚を持っているとうぬぼれてもいないが、それでも少しでも上に行きたいと思うのは男として当然持つ欲求だと思う。そういうわけだから、俺にとって業務時間には余計なことを考えず仕事をするのはごく自然なことになった。
 下手に職場に相手がいてトラブルになったら仕事にも支障がでることは予測できるし、幸いにして転勤を繰り返していても営業職ならば自然と顔が広くなる。何も狭い世界で相手を求める必要などなかった。だからして、入社当初はともかくとして仕事に慣れてこっち、俺は小指の先ほども社内恋愛を自分が体験するなんて思っていなかったわけだ。
 四年と半年ほど前に彼女と知り合うまでは。
 俺の名前コンプレックスを大いに刺激する話なのであまり思い出したくない過去ではあるが、それまでの真面目でとっつきにくそうだった顔をぽかんとさせた彼女はなにやら可愛かった。他人にどう見えるか知らないが、少なくとも俺にとってはそう見えたのだから可愛かったのだ。
 二十代を半ば以上過ぎた女に対する感想ではない気がするし、実際そう思っているのは俺の知る限りは俺以外にはほとんどいない。彼女は割と整った顔をしていると思うんだが、客観的に見て綺麗だというには地味すぎるし、可愛いというには愛想がないのだからそれも仕方ない。彼女は警戒心が強いというかガードが堅い人で、なかなか素顔を見せないのだ。
 初対面の時の、仮面が一枚はがれるかのような表情の変化は、俺には印象深かった。直前の経緯が経緯なので一目ぼれをしたわけではない。可愛いとは思ったが、好みの顔だったかと問われたら――そうだな。当時の俺は否を唱えるだろう。
 だけど、俺の方が図らずも主義を曲げる羽目になった。理由はいくつかあるが、狩猟本能とでも言うべきものがそれには深く関わっている。
 真面目で一直線な彼女の働き振りは尊敬に値すると思うんだが、真面目な故に手厳しいところがあるものだから社内であまり評判がよろしくなかった。いささか融通の効かないところがあるのも短所なんだろう。
 彼女に書類を却下された男連中は生意気な女だと時折言っていた。美人に同じことをされたら鼻を伸ばして口をつぐんだだろうけど、あいにく彼女は地味で華がないタイプだ。かわいげがない、無愛想、堅い女、永遠のオールドミス――あまり誉められたことではない陰口も他にいくつかある。まあ、見る人間は彼女を認めていたようだが大抵それは上の人間で、俺の知る同期や後輩のほとんどは一度は彼女の陰口を漏らした。
 正直なところ、俺は彼女と初対面後、ほぼ知りあったばかりの同僚に愚痴を――経理のこれこれこういう感じの女が名前の字面を理由に本人じゃないと決めつけて書類をつき返してきたんだとかなんとか――こぼしてそれら陰口をいくつも聞いた。名前も知らず、当然言いもしなかったのに愚痴一つで誰もが俺が誰のことを言っているのかわかったようだった。
 彼女は悪い意味で社内の有名人だった。
 男がそんなだからなのか知らないが、女の中でも色々言われているようだ。旧態依然のわが社では、寿退社が未だに多い。上は人材の定着を図ろうとしているようだが、なかなか古い体制を打ち破るに至っていないのが現状なのだ。結婚の決まった女子社員は気を使ってかどうなのか、率先していそいそと退職届を持ってくるそうだ。元からの社の体質ゆえか、向上心のある女はあまりいない。定着を狙っていても向上心のない相手を引きとめる必要なんて上にはなく受理し、その現状に絶望した数少ない向上心のある女子社員はその大方が去っていく悪循環。
 少し話はそれたが、そういったわけでうちの社には勤続年数の長い女子社員は少ない。そんな中、五年以上の勤続年数を誇る彼女は他の女子社員にとって目の上のたんこぶのようだった。相手のためを思っての指摘も融通のきかなさが仇となってかうまく伝わらないようで、目の敵にされている。
 歓迎会の席上で、酒の力もあってか、得られる情報は数多かった。苗字は畑本。通称は経理のお局。名前を覚えている人間はほとんどいなかったが、誰かが由希子というのだと思い出した。俺の名前を見て読み方を誤解したのも音が似ていると思ったからではないかとなんとなく感じる。最初は彼女に対して不満を持っていた俺も、酔った誰かがあの女には血が通っていないと言ったところで違和感を覚えた。
 誤解でコンプレックスを刺激されて憤りは覚えていたが、血が通っていないような冷血な女だと言い切るには彼女が垣間見せた表情は可愛かった。名前の読みを教えた後のぽかんとした顔は仕事モードではない素の彼女。一瞬で元に戻ったが、幻だとは思えなくてそれとなく話を向けても、誰も彼女が隠した素顔を知っているものはいそうになくて。
 で。どうやら貴重なものであるらしいその顔をもう一度見たいと思ってしまった。興味以外の感情は、その時は持っていなかった。だけど初対面以降、何度顔を合わせても一度も崩れない事務的な彼女の態度に本能が刺激された。冷静に考えて、他の誰も見たことのない素顔を彼女が再び見せる可能性はきわめてゼロに近い。でも叶わない望みほど叶えてみたくなる。
 前述の通り俺は社内恋愛をする気なんてこれっぽっちもなかったし、彼女もそんな気はまったくなかったと言っている。そんなだから仕事で顔を合わせて話をするだけの顔見知り程度の関係が本来ならば続くはずだったが、俺が意地になったからすべては変わった。
 実のところ経理に頻繁に書類を持っていく必要はなかったんだが、まずはあれこれ用事を作った。最初は書類を持っていって事務的な話をするだけ。そのうち少しずつ世間話をするように。それでも彼女のかたくなで真面目な態度は変わらず、余計に意地になる。そんな俺を見て無駄に派手な経歴に目を奪われて俺に寄ってくる女子社員はあんな人よりも自分がとうるさかったし、彼女に言い寄って――いるように見えたようだ――他に目もくれない俺を同僚は趣味が悪いと遠慮なく言ってきた。
 外野があれこれうるさいと、なんとしても目的を果たそうと燃えてしまったのもやはり本能だろう。無駄ではないかと思いつつも小さな努力を繰り返し、少しずつ近づいた彼女は俺のそれまで知り合った誰よりも遅い速度で少しずつ警戒心を解いていった。ほんのわずか、笑みを見せてくれたときは猛獣を手なずけたような気分になった。やはり一瞬で元に戻ったのは残念だったが、長い努力の末の結果に満足感を覚えた。
 で、同時に初めての笑顔に、あっさりと主義を曲げられてしまったわけだ。無駄な努力を繰り返しているうちに情が移ったのかもしれないが、ほとんど最初から彼女に惹かれていた可能性も否定できない。強固に社内恋愛は避けようと思っていたから無意識に自分の感情から目をそむけていたのに、気付かされてしまった。そんな感じだった。
 彼女のガードが堅すぎたのがいけない。すんなりもう一度素の表情を見ることができていたら、きっとこうまで執着はしなかった。だけど彼女は頑なでなかなか打ち解けず、その上での笑顔だ。例えそれまで興味本位だったとしても、長い努力の末には落ちずにはいられなかったと思う。
 達成感の後で胸に沸いた感情に社内恋愛は避けようと思っていたのにと冷や水を浴びせても、いったんついた火は消えなかった。社会人になってから自分の気持ちを律するように心がけていたのに、一つも制御できない。もはや何かしら用事を作って彼女の顔を見ることは仕事の一部のようになっていて、やめることができない。直接のやり取りが効率がよいというのは、単なる言い訳でなく事実だったから余計に。だから書類を持って経理に行き、ついでに彼女と言葉を交わし、そして新たな表情を探す。
 初対面で素の顔を見て、度重なる努力の末にわずかな笑顔を見た。だから。他にもと思ってしまうのはごく自然な感情だと思う。
 避けようと思っていた事柄に自ら踏み込む自分を俺の半分はあざ笑い、半分はその裏で言い訳を探した。そしてどこまでも冷静であろうとした俺は、感情的でありながらも冷静な判断で本能に屈することになる。真面目な彼女が恋愛を仕事に持ちこむことはあり得ない。だから仕事に支障はきたさない。
 今思えば当時の俺は確実に浮かれていて真に冷静な判断ではなかったが、天啓のようにひらめいたその言い訳は今思っても的を得ていると思う。
 かくして本能に屈した俺は緩やかに方針を転換した。

2008.10.20 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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