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3.せいやでーと

 ふと気づくと、雪が舞い始めていた。
 会社の帰り道。コートにマフラー、手袋にカイロ。完全防備で一心不乱に歩いていたところだ。
 違和感を感じて見上げると、夜空から白い雪が舞い始めている。オフィス街の端、明るい電飾が途絶えてしばし。
 気づいてしばらくすると、見上げるまでもなくたくさんの雪が降ってくるのがわかる。
「っち」
 春菜は女らしくない舌打ちをひとつ。
「よりによってホワイトクリスマスとくるか〜!」
 忌々しい気持ちを口にしてもすっきりするどころか、余計忌々しい。
 華やかな電飾を楽しむカップルに我が身の空しさを散々感じたあとのことだ。舌打ちの一つや二つ、許されると思いたい。
 気持ちコートの襟を立てて、春菜は歩き続ける。
 寒いと陰鬱な気分が心の中で増殖する。家に帰って暖房をつけて、陰鬱さを根絶したかった。



 そんな春菜が足を止めたのは、住んでいるアパートのすぐ近く。
 足を止めるつもりなど全くなかったのに、立ちすくんでしまったのには理由がある。
 吐く息が白く風にさらわれるのがやけに印象的だった。その白さの奥には、目を疑うような姿がある。
 電柱に取り付けられた街灯は一つ置き。近づいた街灯の下にその理由は立っていた。
 スーツ姿の上にフード付きのダウンジャケット。フードを被って、手袋をした手に白い息を吐いている。軽く足踏みをしているのは寒いからだろう。
 春菜は呆然とその姿を見た。
 街灯の光量は十分とは言えない。相手がフードを被っているとなれば、疑う余地はいくらでもあった。それでも明かりの下にいる人物が誰なのだか、春菜にはわかってしまった。
 体格も、わずかな明かりの中で見える輪郭も、よく知る人としか思えない。
「――なにしてんの、修平」
 ほんの少し距離を詰めた春菜の口からかすれた声が漏れる。その声に反応するかのように修平は顔を上げた。
 間違いなく、春菜のよく知る修平。声をかけたのに気付いたのではなく、人の気配を感じ取ったのかもしれない。
「お」
 何の気負いもない修平の声はひどく軽い。
 顔を上げた修平のはフードを取り払い、耳からイヤホンを抜いて乱暴にポケットにしまい込む。
 春菜はその声を聞いてもなお現実が信じられなくて、マジマジと近寄ってくる修平を見つめた。
「おっせえなー。帰りが遅いもんだからデートでもしてるのかと思ったぜ」
 何度見てもやはり相手は三元修平その人。
 寒さにわずかに青ざめているように見える以外は、いつも通りの整った顔。
 茶目っ気たっぷりに言われて、春菜はめいっぱい力を込めて彼を睨み付けた。
「嫌みかそれは!」
「いいやー」
「なに笑ってんのよあんた」
 春菜の睨みにもめげず、修平はにやにやする。春菜は不機嫌な様子を隠そうともせず、さらに視線に力を込めた。
「大体、あんたこそデートじゃないの?」
 疑う眼差しを修平に向けて、春菜は周囲の様子をうかがった。修平の家はオフィス街を挟んで春菜の家と逆方向。こんなところに彼がいることは異常だ。
 可能性としては、彼の相手が春菜の家の近くに住んでいるということもあり得るが、よりによってクリスマスの日にこんなところで相手を待っていなくてもいいと思う。
 最悪な聖夜の予感に、体どころか心が冷える気がした。それでも春菜は気丈に振る舞う。
「それとも、ドタキャンされた?」
 少々意地悪く問いかけると、修平は顔をしかめた。
「あ、図星?」
 声がわずかにはねたのは、恋心が原因。春菜は自分の浅ましさにすぐ気づいて、口にしたことを後悔した。
「……そりゃねえ、こういう日は私はもれなく暇だけどさ。だからってそれを見越して待ちかまえられるとなんとなーく気持ち穏やかじゃいられないんだけど」
 押し黙った修平に言い訳のように春菜は呟く。
「――もれなく暇っておまえ、潤いのない生活をわざわざアピールしなくていいだろが」
 ややして苦笑する修平を、再び春菜は思わず睨み付けた。
「潤いがないとか言うな」
「否定できないんじゃないか?」
「いいの私、とりあえず仕事に生きることにしてるから」
「視野が狭いなー」
 誰がその原因だ、そう言いたかったけど言うわけにはいかない。
 春菜が他に目を向けることができない理由は、修平に思いを寄せているのが原因なのだ。
 その当人に言われると、とてもむかむかする。押し黙る春菜に向けて修平は首を傾げながらさらに距離を詰めてきた。
「しっかし、寒いな。ここにいる間にずいぶん冷えたぜ」
「雪が降り始めるくらいだし、当たり前でしょ」
「ちょっとは暖かい一言をかけてくれても罰は当たらないと思うんだが」
「やあよ」
 ずいぶん距離が近いように思えて、春菜は顔をしかめて一歩退く。
「逃げなくていいだろーが」
「ちかすぎんの!」
 その言葉は逆ギレに近いと春菜は自分で気づいた。はねる鼓動に気付かれたくなくて、じりじりと後退する。
 修平は明らかに苦笑を深めていく。視線を逸らして、大きなため息をついた。
「何よその処置なしって顔は!」
「いやー? こっちの事情」
「はあ?」
 裏返った声を出して不信感を露わにする春菜を無視して、修平はわざとらしく手に息を吹きかけて寒そうな動きを見せる。
「しっかし寒いな。予報じゃ、雪とは言ってなかっただろ」
「あー、私昨日天気見てないかも」
「ちらっと降ったと思ったら、結構な量になってきたから諦めようかと思ってたところだ」
 春菜が最初に気付いた時よりも、雪の量は増えている。今はまだそのような気配はないが、朝まで降り続ければあるいは積もるのかもしれない。
「何を?」
「おまえが帰ってくるのを待つの?」
 疑問を疑問で返されても返答に困る。
 まっすぐ向けられる視線を正面から見つめ返すのが息苦しい。春菜は空を見上げるふりをして修平から目をそらした。
 闇色の空中に舞う雪がきれいだなと思ったのは一瞬、すぐに雪が目に飛び込みそうになって慌てて頭を振る。
 それを見て笑う修平を春菜は横目で睨んだ。
「何でそこで私を待つ必要があるわけよ」
「何でそこでそう聞くのかなお前は」
 春菜と同じく修平も不機嫌さを隠さない。
「ごめん?」
「適当に謝られても困るな」
 困るというよりはやはり修平は不機嫌だった。
 だからといって本気で謝ろうなんて、春菜にはとても思えない。
 クリスマスのデートをドタキャンされたのは、そりゃあ同情すべきところがあるのかもしれない。でもその原因は、いまいち軽い修平自身にあるのは間違いないと春菜には思える。
 それでも相手が修平以外の誰かなら、もう少し真剣に慰めてやるくらいはしただろうが。
 暇になったからなんて理由で待っていられても、うれしいどころか悲しい。もしかしたらこれはチャンスなのかもしれない――そう思いはするけれど、そこに付け入るような真似をして、彼とどうにかなろうなんてしたたかさを春菜は持ち合わせていなかった。
「でも謝る気があるなら、夕飯に付き合え」
「はあ?」
「反論は却下だ」
 よほど腹に据えかねたらしい。
 修平は彼らしくなく強引に春菜の腕を取った。予想外の行動に目を丸くする春菜にかまわず歩き始めたものだから足を取られそうになる。
 春菜は修平の腕を振り払って、仕方なく彼の横に並んで歩く。
「こーゆー無茶な行動して彼女を怒らせたんじゃないの?」
「お前いいから口開くな」
 わざとらしく腕をさすりながら呟くと、本気で怒り声が降ってくる。
 仕方なく春菜は口をつぐんで修平の様子を観察した。きゅっと口を引き結んだ彼の横顔は、憤りが露わ。下手なことを言わない方が身のためだと自分に言い聞かせる。
 想い人と予想外にクリスマスの夜を共に過ごす――ある意味最上のクリスマスプレゼントだが、相手の気が立っていたらうれしさは半減だ。
 春菜のサンタクロースはどうやら意地悪だったらしい。中途半端な贈り物よりは、家で一人過ごす方がましだった。
 自然と歩みはゆっくりになる。怒っているはずの修平なのにそれに気付いて歩調をゆるめてくれる。
 春菜のアパートの前を通り過ぎ、角を数度曲がる。
「着いたぞ」
 修平が久々に口を開いたのは五分ほど歩いたあとだった。
 ごく普通の民家の間に交じる、少し普通ではない民家の前だった。普通でないのは周りがきれいなイルミネーションで彩られているところだ。
「なに、ここ?」
 問いかける春菜にかまわず修平は門扉を押し開けて中に入ろうとしている。
「いいからいいから」
「いや、いいからって」
 さらに彼は玄関の扉に手をかけた。引かれる扉の真ん中に一瞬「OPEN」の看板が見えたので、春菜はそこが普通の民家でないのだと悟る。
 扉を開けるとどこかで聴いたことがあるようなメロディー。中に入り込むと、扉のすぐ横のところがレジになっていた。
 やわらかな明かりの降り注ぐ廊下の奥から店員が駆け寄ってきた。
「予約の三元ですけど」
 いらっしゃいませの声に修平が言うと、レジで何か確認したあと店員は「お待ちしておりました」と応じた。
「予約までして、気合い入れてたの?」
「席に着くまで黙っててくれよ」
 春菜は大人しく黙り込んだ。
 どうやら修平は本気でこの場所を設定したらしい。言葉の端に隠しようのない苛立ちが混じっている。
 春菜が時折想像した、いかにも修平が選びそうな店だった。まるで隠れ家のような趣の、おしゃれなレストラン。
 店員は二人を個室に案内した。ウェスタン風の扉の奥は、そう広くはないが落ち着いた空間。向かい合わせに柔らかなソファ、その間に木製のテーブルが配置されている。
 手を伸ばせば相手に触れられそうな、小さな部屋だった。やや横長のテーブルの端っこに、かわいらしい花が飾られている。
 雰囲気を重視した店のようで、さすがの春菜も思わず感心してしまった。こんな店は初めてだ。その初めての相手が修平なのはある意味喜ぶべきで、だが素直に喜ぶわけにはいかなかった。
「おっしゃれーな店ね」
「ああ」
 どんなかわいい子を連れてくるつもりだったの? そんなことなんて聞けるわけがなく、当たり障りのない感想を呟く。
 あとから付け加えられたような壁は天井まで届かない。室内に降ってくるのは廊下と同じ暖かな色合いのやわらかな光だ。
 落ち着いたムードの曲に合わせるように、光量が抑えてある。普段ない状況に喜べないはずなのに気持ちが浮つくのを春菜は感じた。
 ドギマギしながら春菜はドリンクメニューを壁際から引っ張り出す。
「春菜、お前挙動不審」
「悪いかっ」
 そわそわしてしまうのは個室なのが悪い。
 春菜が挙動不審なのを見て、修平は不機嫌さを引っ込めた。にやにや笑いながらの言葉に春菜はむっとする。
 行った飲み屋は数あるが、個室に二人きりなんて初体験だ。春菜の外食は基本大人数で、少数で食べに行ったことなんてほとんどないのだから仕方ない。
「どうせ場慣れしてないわよっ。そんなことより修平は、何飲むの?」
「もちろんビールだろ。――お前、飯は食ってないんだよな?」
「今更聞くようなことじゃないと思うけど」
「食ってないってことだな。コースでいいか?」
 春菜はこくりとうなずいた。
 話題がそれたので、春菜はほっとしてメニューに視線を落とす。
「何コース?」
「クリスマスディナー」
「……それも予約してたの?」
「うん、まあ、そういうわけだけどな」
 生憎クリスマスディナーの詳細はメニューにない。
「あらかじめ予約してるから、キャンセル効かないってだけの話なんじゃない」
 修平が彼女と過ごそうとした聖夜には、大いに興味がある。複雑な思いからひねくれたことを言ってしまったけど、それでもやっぱり気持ちが浮つくのを押さえきれなかった。
 飲み物の注文のあとも、春菜は室内をしきりに観察した。完璧に、女の子が好みそうなポイントを突いている。女の子らしさからやや離れた位置に立つ春菜でも心浮き立つのは、目の前にいるのが修平であるのもさることながら、この場の空気もあるのだろう。
「本気で慣れてないんだなー」
 修平がにやにやと突っ込みを入れてこなければ、この空気に誤解しそうになったかもしれない。
 浮き立つ心におもりをつけて、春菜は鋭く修平を睨み付けた。
「よっぽど張り切って今日の予定を立ててたんだなーって感心してただけよ」
 嫌みのつもりで吐きだした言葉は、もれなく春菜自身にもダメージを与える。明らかに恋人向けの空気――ドタキャンされなければ、今頃彼はこの場で愛でもささやいていたんだろうから。
「張り切ってってよりは真剣に、だな」
「ご愁傷様、って言ったらいいのかしら。……やけ酒には付き合うわよ?」
 春菜自身、やけ酒をあおりたい気分だ。フォローのつもりで提案すると、修平は片方の眉だけを器用に歪めて頭を振る。
「やけ酒にはまだ早い」
「あー、せっかくのディナーだしね」
「いやいや」
「ん?」
 納得する春菜に対して修平は頭を振った。不思議に思う春菜の疑問が言葉になるまでに、注文していた飲み物と前菜が立て続けにやってきた。
「うわー、無駄にしゃれてるわねー」
「無駄とか言うな、無駄とか」
「あんたいつもこんなところでお食事してるわけ?」
 乾杯するより前に春菜は思わず問いかけてしまう。呆れた響きが混じったのは、一瞬純粋に呆れてしまったからだ。
 それは春菜のイメージするフランス料理の一皿に思える。白い大きな皿の中央にゼリーで固められた野菜が乗せられ、皿の縁を緑色のソースが彩っていた。
 それを見ると、これまで経験したことのない世界に足を踏み入れてしまった気分になる。
「まさか。ここはほら、均に紹介してもらったんだよ」
「あー、ヤツか。ヤツなら――確かにマメに穴場をチェックしてそうだわ」
「だろー?」
「いかにもヤツの彼女好みだもんね。修平の好きな子も、やっぱりこういうところが好きだったの?」
 思わず春菜は聞いてしまった。修平が黙ったところを見ると、どうやら図星のようだ。
 彼女と過ごすために友人から情報を仕入れているくらいだから、どうやら本気の相手だったらしい。
 これ以上突っ込むと自分の傷さえも広げてしまいそうで、春菜はごまかすようにグラスを掲げた。
「ごめん、とにかく食べよっか」
「謝ってもらっても、いまいちポイントが外れてるんだよなー。俺お前とここに来たの、失敗のように思えてきた」
「今更そんなこと言われても困るわ。あんたなら他にいくらでも誘いようがあったでしょ」
 二十数年付き合った自分の性格は、そう簡単に変えようがない。
 春菜が修平の求める女の子な反応なんてするわけがないのは誘う前から想像が付いていたはずだ。
 持ち上げたグラスを下ろしたのは、修平がジョッキを手に取る気配もないからだった。それに、正面きって失敗だなどと言われたら気落ちする。
 普段の修平なら、軽く乾杯でもしてすでに食事を開始していたはずだ。
 なのに黙り込まれてしまえば、それだけ修平が今日にどれだけ力を入れて準備してきたのか嫌でも春菜に想像させる。
 ――本当に修平は失敗した。よりによって春菜を誘うなんて、大失敗だ。
 傷ついた修平を優しく慰めるほどの心の余裕を春菜は持てないし、お互いがお互いを傷つけ合う結果に終わる。
 もちろん修平はそんなことに気付いていないだろうけど。
 この沈黙は堪えた。さすがの春菜も泣きたいような気分になって、密やかに唇を結ぶ。
 グラスから手を離して、鞄をつかむ。立ち上がりかけたところで修平の制止の声がかかった。
「ちょ、ちょっと待て」
「待つ意味もないでしょ。失敗だったんなら、無理して一緒に食べる必要もないし」
 振り返れば本気で泣きそうだった。壁に掛けたコートを取りながら、出るのはただ冷たい声。
「ちょっと待て、落ち着け。言葉足らずだったのは謝るからとにかく座れー?」
 慌てたような修平の声に少しだけ気が晴れる。
 今後の修平との関係にしこりを残してしまう行動かもしれない――それでも、うっかり涙を見せて胸に秘めた想いを知られてしまうよりは、後に引かないはずだ。
「十分に落ち着いてるわよ。じゃあね、修平。新年会で会いましょ」
 予定された行事を口にして、春菜は振り返りもせず個室の扉に手をかけた。
「だから待てってば」
 そこで、ぐいっと肩をつかまれる。驚きで涙の予感が遠くなり、春菜はゆっくりと顔を後ろに向けた。
「何、らしくないことしてんの、あんた」
 はーっと安堵の息だかため息なのだかわからないものを修平は吐いた。
「お前こそ、なんからしくない気がするぞ」
「……そう?」
 図星だからこそ素っ気ない態度を取ってしまう春菜に修平は苦笑する。もう、いつも通りの彼だった。
 座ることを促すように肩に力がこもったから、仕方なく春菜はコートを抱えて座り込む。
「前々から気になってたんだけどさ」
「な――なにが?」
 真剣な顔での切り出しにひやりとした。
 春菜はぐっとコートを胸に押しつけて、次の言葉を待つ。
 泣きそうだったことに気付かれたのかと思ったけど、その割には「前々から」なんて言っている。疑問は尽きないのに、修平はしばらくの間、次の言葉に迷う様子を見せた。
「お前ってさ、こういう――なんだ」
「うん?」
「お前はこういう雰囲気を嫌ってるよな」
「へ?」
 修平の真意が読めなくて、春菜は間抜けな声を出す。どこまでも修平は真面目な顔を崩さない。
「こういう雰囲気、て?」
 修平の方こそが、なぜか春菜の真意を知りたいと態度で示していたはずなのに、問いかけにはまともに動揺した。
 再び言葉に迷った様子を見せてから、彼はまっすぐに春菜を見た。
「あれだ、男と二人で面と向かって食事とか、そういう状況……か?」
「何その不思議な言い方」
「どうなんだ?」
「どうなんだって、どういう意味なのよ」
 微妙な問いかけには答えがたい。春菜は眉を寄せて、考えた。
「どういうって――何があったかは知らないけどな、いつまでも大昔の失恋を引きずって仕事に生きるなんてうそぶいてていいのか?」
「――えぇ?」
 今度こそ、本気で間抜けな声が出る。語尾が高く跳ね上がり、なんて声を出したのだと春菜は瞬時に後悔した。
「大昔の失恋――?」
 心当たりなんてまるでない。眉間にしわを寄せる春菜を見て、修平はため息を漏らす。
「俺とお前が出会った原因だよ。お前が男といまいち距離を取る理由、それだろ?」
「ちょーっと待って?」
 春菜は鞄から手を離して修平を制するように上げた。
 わざわざ思い起こす必要なんてないくらい、修平との出会いは春菜の中に刻まれている。それこそが間の抜けた出会いだった。
 花粉症と勘違いのコンビネーション。その時のことを思うたびに何とも言えない気分になる。
「その誤解は解けてたと思ったんだけど。あんた私が花粉症だってもう知ってるでしょ?」
「今は建前の話はいいんだよ」
「建前じゃなくって、真実だってば」
 修平はまるきり信じるつもりがないらしく、「いいんだ」なんて一人で言っている。
 修平は春菜にとって恥ずかしい記憶を未だしっかりと覚えている上に、誤解も解けていないらしい――出会って六年近く経って、恐るべき事実が判明したことにくらりとした。
「お前、このままでずっといるつもりか?」
「いや、いるつもりかとか言われても」
「このままじゃよくないって、俺は思う」
 修平が真面目に春菜を心配する様子を見せるから質が悪い。
 春菜が心底返答に困っているのがわかったのか、修平は一度言葉を止める。視線をあちこちさまよわせたあとで、彼はまっすぐに春菜を見つめ直した。
「だからってわけじゃないんだけどさ、お前一度俺と試しに付き合ってみねえ?」
 そして彼がそう言った瞬間、頭が真っ白になった。
 呆然としたのは、数秒ほどのこと。春菜は我に返るとキッと修平を睨み付けた。
 そりゃあ、春菜は修平が好きだ。今の関係を崩すのが怖くて、何も言えないくらいに好きだ。
「ふざけてんの?」
 だがその想いが一瞬で凍り付く。
 ―― 一度、試しに、付き合う?
 心の中でその言葉を繰り返して、悔しくてたまらなくなった。
「ドタキャンされたからって、そーゆーこと軽々しく言うもんじゃないわよ」
「軽々しく言ったつもりはない」
「真面目に言ったら重いって訳じゃないわよ」
 冷たく響く春菜の言葉に、修平は苦い顔。
「そもそも、今日は誰とも約束してない」
「今更何言ってんの?」
「最初からお前を待ってたんだよ」
「……嘘に嘘と重ねるのは、見苦しいわよ」
 怖いくらいにまっすぐな修平の眼差しは、一つも揺るがなかった。
 春菜は愕然としつつ、その眼差しを受け止めた。凍り付いた心にわずかに期待の熱が籠もる。
「はじめから約束を取り付けたら、お前は構えるだろ。拒否食らいそうな気もしたしな」
「約束も何にもしてないのに、ここの予約取るとかあり得る?」
「予約でも取らなきゃこんな日はどこも埋まってるぞ? まあ、秋頃行ったような店なら普通に空いてるだろうが――あんなところでこんな話もできないだろ」
「そりゃ、まあ、そうだけど」
「だろ? さっき言ったが、俺はそれなりに真剣に今日の予定を立てたんだ。怒らずに飯食ってる間くらいは真剣に検討してもらえるとありがたい」
 変わらぬ揺るぎない眼差しを受けて、思わず春菜はこくりとうなずいた。
「でもあんた、正気なの? どう頑張っても私はあんたの好みから大きく外れてると思うんだけど」
 素直に私はあなたが好きだったなんて、ここで言える性格なら苦労しない。うなずいたあとで忠告めいた言葉を口にする春菜に修平はゆっくりうなずいた。
「俺もそう思うんだけどな」
「そこでうなずくかあんたは! あのね、いっとくけど、誤解前提の同情だったら今すぐ撤回しなさいよ。人に考えさせたあとで勘違いでしたとか言ったら蹴るわよ」
「どうやら勘違いじゃないようだから言ったんだよ。どうしてもお前が気になるってことは、お前が好きだってことだろ」
 蹴るとか言いやがる口が悪い女でもな、なんて冗談めかして修平は続ける。
「悪かったわね口が悪くて!」
 好きだと言われたことよりも、その一言にこそ引っかかる。
 自分のかわいげのなさは十分わかっている。それはずっと昔から春菜のコンプレックスだったのだから。
「そんなことなんぞ十分知ってるから気にすんな。今更殊勝なこと言われた方が困るから」
「……あんた、私のこと本気で好きとか言ってんの? 聞けば聞くほどうさんくさいと思うんだけど」
 修平はなぜかそこでにやりと笑った。
 彼は軽く身を乗り出して、テーブル越しに春菜の頭をなでてくる。
「なー!」
 声を張り上げかける春菜の口をその手でそっとふさいで、ますます修平は笑みを深めた。
「お前、言動はかわいくないけど、行動は意外とかわいいしな? 顔、真っ赤だぞ」
「息苦しかったのよ!」
 頬が熱い。春菜は修平の指摘通りに顔を赤く染めながら、文句を口にする。
「さっきも興味津々で部屋の中見回してたしなー」
「実際興味あったんだからしょうがないでしょ」
「文句言ってる訳じゃねえって。そういうところがかわいいって褒めてんだから」
「嘘よ」
「ほんとだって。ほら春菜、気を取り直してコートかけろ。そして鞄を置け? まずは乾杯するぞ」
 春菜の機嫌を損ねるのはまずいと思ったか、修平はジョッキを手にして言い始める。納得いかないことが多々あったが、春菜はそれに素直に従った。
「じゃあ――二人のこれからにかんぱーい」
 軽くグラスとジョッキを合わせる。
「これからって、別に私まだ付き合うとかそういうこと言ってないんだけど」
「食べてる間は検討してくれって言っただろ。何なら、しばらくお試し期間を設けてもいいぞ?」
 この期に及んで素直になれない春菜に対して、修平は妙に乗り気だった。
 だんだんと本気なのが実感できてきて、春菜は本当に胸を躍らせた。それでも素直に自分も好きですと言えないのは、修平のこれまでを垣間見ているから。
「そうね、今日中に結論出せって言われても困るわ」
 お試し期間という考えは、悪くないように思える。
「お、言ったな。じゃあ、今日から――そうだな、次のエイプリルフールまで、試しに付き合ってみようぜ」
「大体三ヶ月か、そうね、それくらいがいいかも」
「恒例のデートの真似事も、次のエイプリルフールで最後だ。そこから先、マジデートをするつもりで行くからな?」
「その時まであんたがそう思ってるかどうかが疑問だけどねー」
 春菜としては喜ばしい話だけど、修平が気持ちを変えることは十分に考えられる。
 前菜をつまみながら春菜が呟くと修平は水を差されたと言わんばかりの顔で彼女を見た。
「お前がちょっと意識を変えて、俺をちゃーんと見てくれたら大丈夫だ」
「どこからそんな自信が出てくるんだか」
 呆れた口ぶりを装った春菜は嘆息した。
 今はとても言えないけど、春菜が修平を好きな事実は三ヶ月後も変わらないだろう。
 問題は修平の心変わりだ。
「修平は三ヶ月後も同じこと言える自信があるの?」
「もちろん」
 迷いなく、きっぱりと。
 修平がうなずくのを見て春菜は考えを改める。
 三ヶ月後は、もっと修平が好きになっているかもしれない。
 ふくれあがる期待の裏側で、不安が次々に沸き上がる。胸を高鳴らせながら春菜は神だかサンタだかに祈ってみた。
 お試し期間が終わっても、修平の気持ちが変わりませんようにと。

2006.12.23 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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