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ブレーキ

 卒業直後の微妙な休み。大学入学までの期間を持て余したってわけじゃないけど、俺と空は自動車免許を取るために自動車学校に通っている。
 その学校の、ロビーで。
「お」
 聞き覚えがある声が聞こえて、俺は顔を上げた。
「須賀っちじゃない」
 ひらっと手を上げ挨拶をよこしたのは、当然見知った相手だった。
「よう、井下」
 井下水葉は、俺の彼女――空の親友だ。
 ほやほやした空とは違って、はっきりした性格。はっきりとした目鼻立ち。
 流行とは無縁で、自分が好きなものを身につけているんだろう。服装はいたってシンプルなものだ。
 細いジーンズに、薄手のタートルネックのセーター。腕にはジャケットを掛けていて、肩にはでかい鞄を提げている。
 井下はこっちに近づいてきた。
「ちょうどいいところにいたねえ」
「ん?」
 そう言って彼女は俺の横に座り込んだ。
「何か用事でも?」
 問いかけながら俺は読んでいたテキストをぱたんと閉じる。塩化ビニル製の袋にそれを突っ込んでから彼女の様子をうかがった。
「いやなんにも」
「はー?」
 ちょうどいいところにだなんて言ったくせに、なんにもはないだろうなんにもは。
 非難を込めて軽くにらむと井下はひょいと肩をすくめた。
「暇つぶしのネタが尽きてね〜」
「暇つぶしのネタがわりかよ、俺が」
「空がね」
 笑顔で井下が言う、その顔には邪気がない。
「それもどうなんだ……」
 親友を暇つぶしのネタにするのか、なあ?
 言いたいけど言っても無駄な気がして、俺は代わりに大きくため息をついた。
 井下は「おもしろいモノ」が好きなんだ。だから井下に言っても無駄だろう。
 確かに空はこの上なくおもしろい、それは残念ながら事実だし。
「それで、空は?」
「いないぞ」
「ええええ」
 期待を込めた目で俺に問いかけた井下は、心底驚いたように声を上げた。
「驚きすぎだろ」
 井下の大声に周囲の注目が集まる。
 彼女はそれに気づいて、何でもないですとばかりに曖昧に笑った。
 集まった視線は少しの間こちらを見て、やがて何事もなかったかのように散じた。
「失敗失敗」
 ぺろりと井下は舌を出した。
「……まあいいけどな」
 注目されたのは俺でなく井下だ。色気はないものの、井下はきれいな顔つきをしていて目立つ。俺よりも井下が目立つのは道理だ。
「でも、須賀っちが空と一緒じゃないって珍しいね」
「俺と空はセット商品じゃない」
「いつも一緒にきてるくせに」
 打てば響くように井下は言って、じっと俺を見る。
「空は今日は家?」
「いや、外で教習」
「一緒に来てるんじゃない!」
「今はいないって意味だろ〜?」
 やっぱりセットなんじゃない、とかなんとかぶつぶつ井下は言うけど、空が今いないことに代わりはない。
 俺が平然としているとやがて井下は諦めた。
「まあいいけど。そんで須賀っちは調子どうよ?」
「もうすぐ仮免だな。学科が危うい」
「またまたー」
 井下はひらひらと手を振った。そしてロビーから見える窓の外を眺める。
「にしても、空が車の免許って。自殺行為に思えてならないわよね……」
「まあな」
 否定することはできないので俺はうなずく。
「うなずくんなら、反対すればいいのに」
「なんでだよ」
「免許なんてなくても俺が運転していろいろ連れてってやるぜ、くらい言えないの?」
「な」
 いきなり何言い出すんだ。
「将来ずっと一緒にいること前提かよ」
「違うの?」
 井下はむしろ不思議そうに聞いてきた。
「須賀っち、空をぼろぼろにして捨てる気?」
「なんだその人聞きの悪い言い方は!」
「えーだってー」
「だってじゃないだろ」
 睨み付けると井下はさすがに口をつぐんだ。鞄を膝の上にのせて、その上にひじを立てる。
「でも、一緒にいるつもりなんでしょ?」
「今のところはな――将来どうなるかわからないだろ」
「んまあ、慎重ですコト?」
 冗談めかして井下が呟くので、返答に困っているうちに、軽やかな音楽がロビーに響く。
「時間ね」
「教習か」
「そ。学科はあらかた取ったしね」
 ひょいと井下は立ち上がった。
「空にも声かけたいけど……」
 帰ってくるかしら、という声はとても小さくて、ざわざわ慌ただしくなった周囲の音にかき消されそうだ。
「すぐ帰ってくるよ」
 教官のお小言も、短い休憩時間をつぶすほどはないと思うし。
 井下が外に向けて数歩進んで、立ち止まった。
「空ー!」
 そして声を張り上げた。彼女が見る方に、確かに空の姿。
 空はそんな井下の声に気付かずに、でもまっすぐこっちに向かってきた。そして近くまで寄って、ようやく気付いて驚いた顔をする。
「水葉ちゃーん」
 はっとした顔をして、それからにっこりと笑った。
「ねえねえねえ」
 ぽんと気軽に井下と手をたたき合わせてから、空はいつもの調子で俺と井下を見比べた。
「あのねえ今ね、すっごいことに気付いちゃったの〜」
 そしてとても楽しそうな口ぶりで話し始める。
「すごいこと?」
 問い返すと、こくりと空はうなずいた。
「右足ってすごいね」
「は?」
 空の言葉に、俺と井下は思わず顔を見合わせた。意味が分からない。
 周囲の声さえも止んだように感じたのは、気のせいなんだろう。我に返ると休憩時間のロビーはざわざわと騒がしい。
「右足……?」
 呟くと、空はこくりと大きくうなずいた。
「今坂道で思ったんだけど、右足ってすごいんだよ」
「はぁ」
 と、井下が要領を得ない声で相づちを打っている。
「右足でぐっと踏むだけで、あんなに大きい車が止まるなんてすごいよね」
 空は興奮冷めやらぬ調子で続けて、俺と井下は再び顔を見合わせた。
 井下はふっと微笑んで、俺の肩にぽんと手を置いた。
「がんばれ須賀っち。私は遠い空の下の車の中で君のことを応援している」
 生暖かい目で見るな。というかハンドル握ってるときに余計なこと考えるな初心者。
「じゃあ、時間だから行くわ」
 ひらりと井下は手を振って、去っていく。
 立ち去るときに「いやあ空ってやっぱり面白いわー」と呟いたのがきっちり耳に入ってきた。
 空と二人、ロビーに取り残されて。
 きらきらした空の目を見つめる。
「あー、あのさ、空」
 この夢と希望――のようなもの――に満ち満ちた空に、一体どうやって現実を教えればいいんだろう。
 それは右足がすごいんじゃないから。
 物理的にそれあり得ないから。
「ゆーくん?」
 こくん、と首をかしげる空は文句なしに可愛い。
 冷たく切り捨てるようなことは言えなくて、かといって詳しく説明しても理解してもらえるかは微妙で。
「右足がすごいんじゃなくて、車の中に入ってる機械がすごいんだって、あれは」
 そう言うと空は一度まばたきをした。
「車なんてトン単位で重いんだから、右足一つで動きを止められるなんておかしいだろ」
 空はもう一度瞬きした。
 きょとんとした顔が驚きの色に取って代わる。それから、
「あああああ」
 小さく叫んで、彼女はぽんと手を打った。
「そうか、そういえばそうだねえ」
 うんうんと納得したようにうなずいてから、空はため息を漏らした。
 空がため息だなんて珍しくて、思わずじっと見つめるとため息のあとに照れたような笑みを浮かべてこっちを見返してきた。
「残念。大発見だと思ったんだけどな〜」
「そうだな」
「右足の力を研究したらすごいと思ったのに」
 コメントに困って、空の頭をぽんぽんやる。
 それにしても、ただでさえ運転あぶなかしいんだから運転中に妙なこと考えるのだけはやめて欲しいんだけどな……無理なのかな、ソレ。

2005.03.18 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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