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第一話 春と桜と変な人

 冬はピンと張りつめた糸のようなものだ。だとすれば、春はその糸が緩んできた頃にやってくる。
 ――四月。
 受験という緊張から解き放たれて、頬さえも緩んでくる。
 入学式を終えた翌日、新入生の予定と言えばオリエンテーションくらい。
 学部ごとに講堂で様々な説明を受けたあと、優美は暇をもてあました。
 県外からの入学で、入学式の翌日にはまだ友達と呼べる相手もいないとなれば、余計に暇である。だから優美は一人、学内をさまよっていた。
 城上大学は六学部を擁する。キャンパスは二つ。その一つだけでも、二十を越える建物があるのだからその広さと言えば高校時代とは比べものにならない。
 広大な敷地に、適度に緑を配置しながら並ぶ建物たち。最初に見たときはその規模に驚いたものだった。
 慣れるまでしばらくは地図が手放せないだろう。多分実際に利用することになる建物は限られているだろうし、きっといずれ慣れるとは思うけれど、今のところは迷子にならないように用心に越したことはない。
 もちろん要所要所に現在地案内の看板は出ているけれど。
 探検のつもりで歩き始めて小一時間。
「わぁ」
 ゆっくりとしたスピードで何となく奥に進んできたその後で、優美は思わず歓声を上げた。
 こんな奥にあるのはもったいないくらいの、きれいな桜が咲いていたからだ。
「桜は日本の心だとか、じーちゃんは言ってたわね」
 思わず優美は呟いた。実家に同居している祖父は、春になるたびそう言っている。
 優美も桜は好きだ。
 目を細めて、桜を見上げる。まるで無計画に桜の木が一帯に何本も植えてあるようで、斜め上向きに見上げるとまるで桜色の海のように見える。
 風は強くないものの、緩やかに吹いていていちまい、にまい――ちらちらと花びらが舞っている。
 立ち止まって見上げたあと、斜め上に視線を固定したままゆっくりと一歩一歩進んだ。
 ことさらゆっくり歩いているからか、桜色の海はどこまでも果てなく続いているように思えた。
「きれいねぇ」
 ほう、と優美は息を漏らした。思わず呟く。
「月並みな言い方で言うと、心が洗われるね」
 くぐもったような声がそれに応える。
「えっ」
 呟いて、足を止めようとしたその時に――最後に踏み出した足が柔らかい何かを踏んだ。
「ぐええ」
 それに呼応した間抜けな声は、優美の足下から聞こえてくる。中途半端に足を浮かせたまま、優美は恐る恐る下を見た。
 くぐもった声の主は、ジャケットを顔に掛けて昼寝の体勢だった。身につけた黒いTシャツのちょうどおなかの位置に、優美のスニーカーの靴底が灰色のあとをうっすらつけている。
「ご……ごめんなさい」
 ちゃんと地面に足を下ろして、謝る。
「確かに桜はきれいだけど、上ばっかり見てちゃ危ないよ?」
 声の主はジャケットを顔に掛けたまま、くぐもった声を出した。
 聞き取りにくい声なので、優美はしゃがみこんだ。
「ごめんなさい。人がいるとは思わなかったから」
「だったら気をつけた方がいいよ。ここは昼寝を愛する者にとって聖地だから」
 心持ち大きい声でジャケットに声を掛けると、諭すような声が返ってくる。優美は忠告にうなずいて、それじゃあ駄目だと「はい」と声に出した。
「……息苦しくないの?」
 それから、ちょっと気になって尋ねる。
 日よけなのかもしれないけれど、ジャケットを顔に掛けたままだとしゃべりにくいんじゃないだろうか。
 春とはいえまだ肌寒く、ジャケットはそこそこ分厚いように見える。
「それを否定するほど我慢強くはないね」
 ジャケットの主がゆっくりと腕を動かした。ふらふらとジャケットに近寄った手が、ずらすようにジャケットを顔の上から取り去る。
 出てきたのは茶髪の青年の顔だった。
 面長で、そこそこ整った顔つき。眠そうな目が意外と近い位置にいる優美を確認して驚いたように見開かれる。
「うあー」
 半分眠そうな間抜けな声を吐き出して、優美から顔をそらすようにして彼は起きあがる。
「びっくりした?」
「いや聞かれても」
 驚いたのは貴方でしょと言いたいけれど、こらえる。加害者の立場で被害者に偉そうなことは言えない。
 青年は無造作に頭があった近くに放りだしていたらしい眼鏡を掛けてから、優美に視線を戻した。縁がないタイプの細身の眼鏡が、整った顔によく似合う。
 数秒見つめ合って、青年はぱちくりと瞬きをした。
「えっと君、新しい子?」
「入学したばっかりってことなら、そうだけど」
 ジャケット越しでない声は、耳に心地よい響きを持っている。優美は素直に答えた。
「ほほー」
 そういう問いかけをするということは、同じ新入生ではないのだろう。昼寝の聖地とか言うくらい学内を熟知している様子だから、ほぼ間違いないはずだ。
 そんな風に思っているうちに青年はうんうんうなずいてから、にやっと笑った。
「受験勉強はどうだった?」
「頑張りましたよ」
「ここはいいところだろう?」
「昼寝に最適ってこと?」
「……いや、そうでなく。大学が?」
「あー、そっちですか」
 社交的な性格らしい。青年はぽんぽんと問いかけてくる。
「座ったらどう?」
「はぁ」
 勧められて一瞬迷ったものの、中途半端な姿勢なのは確かなので、優美は地図を座布団代わりに青年の横に座った。
「女の子だねぇ」
「は?」
「いやお尻気にするのが?」
 可愛らしく首をかしげられても。
 何で座っちゃったかなと早くも優美は後悔した。
「君は真面目な子?」
「……どっちかといえば、そう言われるけど」
「テレビとか見そうにないね」
「好きな番組を見れないうちに、どうでもよくなりまして。受験中にすっかり見ない癖が」
「新聞とかは読む方?」
「興味がある記事ぐらいは――って、なんでそんなこと答えなきゃならないの?」
 問われて答えたものの、はっと我に返る。
 明るく抜けた茶色い髪に妙に整った顔立ち。それを失礼にならない程度に見つめて、これはもしかして一種のナンパなんだろうかと優美は少し悩んだ。
 微笑みは茶目っ気を帯びていて優しげな印象だけども、ちょっと軽そうな印象を感じる。
 だからナンパとかしそうな人だなあと思ったけれど――でも、すぐさまその意見は却下した。
 優美は服装からしてきっちりかっちりしていて、少なくとも出会ってすぐにナンパしようかと思えるような外見ではない。
 そしてまた残念なことに、深く知り合ってもお近づきになりたいとは間違っても思えないようなかわいげのなさにも自覚がある――と、それは関係ないとして。
 青年は優美がじっと見ていることに気付いて、にっこり笑った。
「いやー、君のような子に出会えるとは思わなかったんで、つい」
「何がついなの何が」
 思わず力強く突っ込むと、ますます彼は笑みを深めた。
「音楽とかは聞かない方?」
「だから何でそんなこと答えなきゃなんないのって聞いてるんだけど」
「ちなみに俺、敬語苦手だよ」
「貴方の好みも聞いてないし」
 彼が気安い性格なのは間違いないようだった。
 整った顔をしているのに、実にもったいない。もうちょっと髪を落ち着いた色にして、もう少し静かにしていれば好み……なんて考えて、優美はそういう問題じゃないと思い直した。
「お名前は?」
「何で答える必要があるの?」
 冷たく優美は答えた。お腹を踏んでしまっただけで、名乗る必要は感じない。
「そうか、先に名乗らなきゃね」
「いやそういう問題でも」
「俺はオノナカ。オノナカタケマサ。小学校の小に真ん中の中、武力の武に正しいと書いて小中武正。よろしくね?」
 よろしくされても困る。
 小中武正なる青年はにっこりと笑ったまま優美を見つめる。返答を待っているらしい。
 端正な顔だっていうのに目がいたずらっ子のようにきらきらしていて、アンバランスな印象を受ける。
「井下優美、です」
 その表情を見て悪い人ではないのだろうと優美は諦めて名乗る。
「いい名前だね」
「それは、どうも」
 ありきたりな誉め言葉に、苦笑する。
「優美ちゃんも花見?」
「初対面でその呼び方はどーかと」
「変わりに俺のことは武正って呼んでいいよ?」
「そういう問題でもないし……」
 慣れ親しすぎるにもほどがあるんじゃないだろうか。
 苦手なタイプだけど、愛嬌のある笑みに妙な親近感を覚えるから拒否する気にもなれない。
 優美が嘆息するのを、武正はじっと見ている。
「駄目かな? せっかく可愛い名前なんだし」
「――いいけど」
 どうせこの場限りだと、優美はうなずいた。
「今日は花見にはいい陽気だね」
「昼寝にも最適ですね」
「昨日は夜遅くって、ついね」
 照れくさそうに武正は笑う。
「講義の合間なんですか?」
「いや、ちょうど見頃だと思って、花見に来たんだけど――つい」
 講義はまだはじまってないよと聞いて、優美は思わず暇人なんですかと言ってしまった。
 武正は大げさに驚いた顔を作った。
「暇そうに見える?」
「忙しそうには見えないですよ」
「心外だなあ」
 そんな言葉を、どこかしみじみと漏らす武正に、優美は心底疑わしげな視線を向けた。
「真っ昼間から昼寝してるような人はちっとも忙しくないと思うけど?」
「夜のお仕事なんで」
「……あー、なるほど」
「いや冗談だよ!」
 納得してうなずいた優美の本気を感じ取って、武正は慌てて否定した。
「私なんかにかるーく声をかけてくるくらいに軽い人にはぴったりですよ、ホストとかそういうのが」
「違うし!」
 必死に武正は叫んだ。
「それに私なんかって。優美ちゃん可愛いじゃない」
「お世辞がうまいあたり向いてますね」
「いやいやいやいやー、冗談だって」
 ぶんぶんと武正は首を振った。
「お世辞を本気にするほど純真じゃないですよ」
「いや可愛いのはホントのことで!」
 うあああ〜、と武正はうなった。
「とにかく違うから。何で信じるんだろ夜の仕事っていうのは冗談なのに……」
「茶髪だし」
「君みたいに染めてない方がイマドキ珍しいと思うけど」
「小中さんのは、それにしたって明るすぎて軽そうに見えます」
「武正って呼んでって言ったのにー」
「そうそう、初対面でなれなれしいのもポイント高いですね?」
「全力でホスト認定……?」
 必死な武正の様子が面白くて、とりあえず優美はこくりとうなずいた。
 がっくりと肩を落とす武正は、どちらかというと演技くさい。
「でもそのことだけは全力で否定しておこうと思う」
「思うのは自由ですね」
「うぅ……井下ちゃん冷たい」
「あ、名字になった」
 呼び方の変化に優美が呟くと、ふふんと武正は胸を張った。
「脱・ホスト印象」
「いや、第一印象は簡単に変わりませんよ」
「まさか最初からホストだとおも……ッ!」
「ってはないけど。軽そうな人だなーと」
「初対面で軽いって言うのもひどいと思う……」
 優美の言葉に武正は見るからにしゅんとした。
 さっきからやけにオーバーアクションな人だと優美は半ば感心する。
「えーと、ごめんなさい」
 ちらちらと意味ありげな視線が気になって呟くと、今度は一転して笑顔。
「ホストじゃないからー!」
 その変わり身の早さは何なんだろうと思いながら、面倒くさいので優美がうなずくと武正はますます笑みを深める。
「わかってくれたらいいんだ、わかってくれたら」
 うきうきした声を出してこぼれんばかりの笑顔。
「今日花見に来て正解だったね」
「何がどう正解なのか知らないけど、花見じゃなく昼寝に来たようなものなんじゃ……」
「花見というか、桜の気配を感じ取りに来たので寝ていてもオッケー」
「はあ」
 優美の突っ込みに、今度はめげず否定もせず。武正はよく分からないことを言ってぐっと親指を立てた。
「大収穫だね、うん」
「……収穫?」
 こくりと武正がうなずいて。
「こんなに――って電話かッ」
 言いかけたときに電子音が鳴り響く。
 ジャケットの内ポケットから取りだした携帯は、優美にも聞き覚えのあるメロディを奏でている。
「はーい、ちわっすー」
 昔聞いたようなゲームのBGMがぴたりと止んで、その先の人物にやっぱり軽いノリで武正は応じている。
 優美は立ち上がった。
「どもども――はいはい、ちゃんと宿題は進んでますよー」
 昼寝してたのにどこが進んでるんだ、と突っ込みたく思いながら、優美は武正に見えるように軽く頭を下げた。
 人の電話を盗み聞く趣味もないし、ここが去り時だろう。
「うあー、ちょっと待ってササノさん。ごめんね、ありがと優美ちゃん。またかまってね〜」
 携帯を押さえながら武正は愛想よく言った。
 こっちが最初にお腹を踏んづけたっていうのに、どこがごめんねでありがとうなのか――とは思ったものの、優美は軽くうなずき返した。
「この広い学内で会えるかどうか、微妙だけどね」
 すぐさま電話に戻った武正に聞こえない声でぽつりと言うと、きびすを返して歩き出す。
 思いがけないいい暇つぶしが出来たことに満足して、なんとなく足取りが弾む。
 この広い学内、数え切れない学生の中で、名前しか知らない相手と再び巡り会える奇跡なんてあるのかしら――あったら、面白いけど。
 内心呟いて、一瞬振り返るとまだ武正は電話をしていた。
「――ま、ここに来たら確率高いんだろうけど」
 社交辞令を本気で受け取るのも馬鹿な話だろう。
 優美は頭を切り換えて、探検に戻ることにした。

2005.04.08 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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