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第二話 麦わら帽と変な人
1.夏の暑さと麦わら帽
暑い、とにかく暑い。
アスファルトを見下ろすと、陽炎が立ち上ってくるのが見えそうなくらいに。
「あー」
友人に別れを告げて、外に出た瞬間に優美はうんざりした。建物内が冷房が効いていただけに、外の暑さが身に染みる。
七月も後半となれば、誰がどう否定しようと夏だ。
熱のこもりやすいアスファルトからむわっと熱気が立ち上り、太陽に照らされてすぐに汗が流れ落ちてくる。
真夏日が既に五日ほど続き、寮までの十数分の道のりは日増しに酷なものとなってきている。部屋に帰っても熱気のこもった室内が過ごしやすくなるまで時間はかかるのだが、それでも優美は急ぎ足で歩き始めた。
炎天下の中過ごす時間は短いにこしたことない。
帰ったら窓を開けて、扇風機を回して空気を入れ換えながらソーダバーを食べよう。決めたよし決めた。
空気の入れ換えを終えたら冷房を付ければ完璧だろう。
頭の中で予定を組み立てていれば、暑さを意識しないでおける気がした。
中央広場で足を早める。噴水のそばは涼しい気がするけれど、近くにある温度計をうっかり見てしまうとあまりの温度に余計暑さを感じかねない。
温度計から顔を逸らすと、この暑い中ベンチに悠長に座っている学生の姿が見えた。
正午に近く、影は全く伸びていない。ベンチ脇に木は植えられていても、日は容赦なくベンチに注がれていた。
麦わら帽子を目深にかぶっていても、暑さは軽減されないだろう。待ち合わせだとしたら、もうちょっとましなところで合流すればいいのに。
優美は思いながら足早にベンチ前を通り過ぎる。
「優美ちゃん」
と。
名前を呼ばれて、周囲を見回した。誰もいない。
ベンチに座っている呼びかけてきた麦わら帽以外は、他にユミちゃんであろう人影は。
優美は眉間にしわを寄せた。不機嫌な顔になったのを自覚する。
「――何?」
麦わら帽に低い声で問いかける。いつでも逃げれるように半身だけ麦わらに向けて。
優美の警戒した様子なんて相手は気にしなかった。目深にかぶっていた帽子のつばをちょいと上げる。
「こんにちは」
麦わら帽に隠されていた整った顔が現れて、にっこりと優美に微笑みかける。
優美は虚をつかれて、身構えるのを止めた。
「お久しぶり。覚えてない?」
「――覚えてるけど」
ため息一つ。優美は完全に麦わら帽に向き直った。
「その節はどうもー」
縁なし眼鏡の奥の瞳が優美の返答を聞いてきらめく。彼は立ち上がり、麦わら帽を取って深々と一礼した。
礼儀正しい一礼も、最後にかぶるのが麦わら帽ではいまいち様にならない。
優美はその様子に肩を落として、一歩退いた。気付かれないように臨戦態勢を整える。
「何か用?」
問いかける声はどうしようもなく尖っている。
茶目っ気たっぷりに微笑む優しい表情の青年は、悪人のようには見えない。
でもたった一回、しかも数ヶ月前に会っただけの相手に突然名を呼ばれて警戒しない方がおかしいではないか。
確か――優美は記憶を遡った。
たった一度の出会いで強烈な印象を優美の記憶に刻みつけた男の名は小中武正。
「いやあ、用ってほど用じゃないんだけど」
へらっと武正は笑う。
そりゃそうよね、と優美は思った。会った直後ならまだしも、数ヶ月経って何かあるなんて普通ない。
「待ち合わせの暇つぶしならお断りするわ」
「待ち合わせ?」
優美の言葉に武正は不思議そうな顔になった。
「違うの? こんな暑い中、そうでもないのにこんなところにいるなんて――」
正気を疑うわ。
さすがに言えなくて語尾が尻すぼみに消える。
「待ち合わせなんてしてないよ」
「そう」
「優美ちゃん冷たいー。もしかして君に会えないかな、なんてちょっとは思ってたのに」
「さすがホスト、口がうまいわね」
「いや、だからそれは違うんだけど」
武正は渋面になってため息をもらした。
麦わら帽の影の下、流れる汗を左手の甲でぐいとぬぐってそのまま顔を仰ぐ。
「大体俺、女の子の友達あんまりいないし」
「お客さんの方が多いのね」
「……何でそうなるのかな」
武正は疲れたような顔で、もう一度汗を手の甲でぬぐった。
「それにしても暑いね。どこかで涼む?」
「今から帰るところなんだけど」
やんわりと拒否の意を告げると、それに気付かなかったのか武正はにっこり笑う。
「近くにおしゃれなカフェがあるんだけど、行かない?」
麦わら帽子なんて今どき流行らない。
例えかっこいい男の誘いでも、武正は優美の好みでないし。
「おごるよ?」
だからくらりときたのは、暑さのせいだと優美は自分に言い聞かせた。
「今から帰って、荷造りの予定があるんだけど」
「あ、帰省?」
優美がこくりとうなずくとふんふんと武正は納得したように首肯した。
「だから」
行けないわ、優美が言う前に。
「優美ちゃんは荷造りに時間がかかるようなタイプじゃないと見た」
にやりと武正は笑う。
「部屋とか、すっげーきれいにしてそう。今帰るより、少し涼んで帰った方が部屋も過ごしやすい環境になってかえって効率がいいと思うけどな。違う?」
可愛らしく首を傾げられても。
麦わらの奥の瞳は無邪気な期待にきらめいていて、優美は嘆息して彼から目をそらす。
「だからと言って、何で貴方とカフェに行かないといけないわけ?」
「つれないなあ。暑いときは水分補給が大事だし、俺は喉が乾いた。この間給料日だったから懐は暖かい。一人でカフェに行くのは少し寂しいし、目の前にはちょっと見知った女の子がいる。だから誘ってみた、じゃ駄目?」
優美は大きく息を吐いた。
「私が色々頼みまくったらどうするの」
「食べ物を無駄にするようなことはしないよね?」
「――そりゃ、しないけど」
だったら大丈夫、武正はそう言いたげににっこりした。
「じゃあ行くよ」
それからは何も聞かずに歩き始めた。
「え、ねえ、ちょっと」
優美が呼びかける声なんて、耳に入っているやらいないやら――もちろん聞こえているのだろうが全くの無視で。
仕方なく優美は後を追った。
「待ってよ」
途中で振り返った武正に呼びかけるも、優美がちゃんと着いてきているのを確認して満足げに顔を正面に戻してしまう。
「もう……!」
待ってくれない以上は意を決することに心を決めた。
おごりでカフェは、優美には甘美な響きだったので。
2005.07.26 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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