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雨のにおい

 市民ホールの入口はガラスの自動ドアがふたつ、連なる形。
「あ、雨のにおい」
 エントランスホールを突っ切って、ひとつめのドアの前で私は思わず呟いた。
「ん?」
 不思議そうな声を出したのは隣にいた彼だ。
「雨?」
 声に不審な色が混じる。一面のガラス張り、日は長くなってきたけれど、七時前ともなればもう薄闇が広がり始めている。
 だから、いくらガラス張りでも外ははっきり見えない。
 ひとつ、ふたつ。
 自動ドアをくぐりぬけて。
「降ってないぞ?」
「でもにおいしたよ」
 私は地面に目を凝らした。ホールを出たすぐそこはベージュ色したタイル貼り。帽子のつばみたいに突き出た屋根の切れた先は黒いアスファルト。
「おかしいなあ」
 絶対したのに。
 アスファルトにはしみ一つ無い。
 くん、と鼻を鳴らす。さっき感じた雨のにおいが、なぜか全く消えている。
「大体、雨のにおいってなんだよ」
 彼がいぶかしそうに聞いてくる。
「雨のにおいは、雨のにおいだよ」
 言い返しながら言うんじゃなかったなって思った。
 これまでも、似たようなことを言って失敗してきたんだ。
 一人目の彼には、なに言ってるんだってしこたま馬鹿にされた。だから嫌になって別れた。
 二人目の彼には、冷静に諭された。夢のないヤツだと思ってやっぱり別れた。
「さーやー?」
 黙りこんでしまった私を彼は覗き込む。
 玄関を出たそこで、二人立ち止まって。
「えーっと」
 彼はこれまでのヤツと違うと思いたい。三度目の正直って言葉がある。
 ごくりと息を飲み込んで、私は気合を入れた。
 そしてさりげなく再び歩き始める。
「雨の降り始めにアスファルトにだと思うけど、雨が落ちるとなんかにおうでしょ?」
「あぁ、そういやするかも」
 彼の反応といえば目をぱちくりさせただけ。ちょっとだけ首をかしげながら呟いた言葉には馬鹿にするような空気は含んでなかった。
「鼻いいねえ、さや」
 むしろ感心したように言ってくれた。
「でも降ってないね」
「そだね」
 彼の指摘は事実で。
「なんで雨のにおいしたんだろなあ」
 私はきょろきょろしながらつぶやく。どこかで誰かが水を撒いたんだろうか?
 でも、こんな時間に?
 もうにおいもしないから、発生源を特定することは難しそう。
「おかしいなあ」
 彼は仕方ないなって感じに笑って、ぽんと私の頭に手を乗せる。
「それにしても、雨のにおいなんて斬新だな」
「そう?」
 上目遣いに見ると、こっくりと彼はうなずく。
「アスファルトが水に濡れるにおい、って言うより簡単で――夢があるな?」
 にっと口の端を持ち上げる。それは優しい微笑み。
「そお?」
 馬鹿みたいに私はあんぐりと口を開けた。
 彼の反応の方が私にとってよっぽど斬新だ。
 うなずいた彼はぽんぽんなでなでと私の頭を好き勝手にいじる。髪がもつれるのが嫌で、私は足を早めた。
 彼の手から逃げ出す私。空を切った右手をもてあました彼は眉間にしわを寄せる。
 何か言いかけた口を閉じて、彼は空を見上げた。
「雨、降ってるな」
「え?」
 彼は私をちらりと見て、地面に視線をおろした。
「小雨過ぎて気付かなかったのかな――いい鼻してるな、さや」
 私は彼と同じように手を差し出す。すぐには気付かなかったけど、ぽつりぽつり。
 小さな水滴が、確かに降ってきている。
「におい、しなかったんだけど」
「鼻が慣れたからじゃないか?」
 彼は普通につぶやいて、笑みを深める。
「鼻がいいから香水が苦手なんだ? ようやく理解した」
 三番目の彼は、変なところで納得した。
「普通女の子は好きなのに、おかしいと思ってたんだよ」
「別に全員好きってワケじゃないと思う」
「そうか?」
 不思議そうに彼は首を傾げる。
「そうだよ」
 言って私はまだもてあまし気味な彼の手を取って、ぎゅっと握りんだ。
 突然の行動に一瞬目を見張った彼は、一瞬後には笑ってその手を握りかえしてくれる。
「どうした? さや」
 どうしようすごく幸せかもしれない、そう思ったんだけど。
「なんでもないよ」
 コイビトドウシなんだから手ぐらい繋いでもいいでしょ、って念を込めて彼を見つめると理解したのかしてないのかひょいと肩をすくめた。

2005.06.12 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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