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明月を愛でながら優しさに想いを馳せる

 会社を一歩出て、恵子は嘆息した。日がとうに落ちていることはオフィスの中からも知れたけれど、窓越しと実際に目にするそれでは感じ方が違う。
「ああ……ついこの間まで夏だったのに」
 ため息混じりに吐き出して、とぼとぼと恵子は歩き始めた。
 恵子にとって、この秋はセンチメンタルな季節だった。社会人生活も五年目、仕事にも慣れ責任ある仕事を任される機会も増えた。その最たるものはこの春から始まった新人指導で――入社から半年以上たってもその新人をうまく指導できないでいる。
 かつて自分を導いてくれた先輩のようにうまくできないのがもどかしくてたまらなかった。
 この半年間が恐ろしいスピードで過ぎていったと思うのは、年齢のせいだろうか? 思った以上に忙しかったからだろうか?
 自問した答えを見出せなくて、幸せが逃げるのも厭わずに恵子は繰り返しため息の生産を続ける。
 恵子を悩ませるのは未だ学生気分の抜けない歌井だ。自分という素材を磨き鍛え上げることにのみ余念のない彼女は、その向上心を仕事に小指の先ほども向けない。
 愛らしい顔を武器に、より条件のいい男を狙うハンターという形容がぴったりの女で、本性を砂糖菓子でコーティングして男どもをだまくらかしている。
 面倒なことは恵子頼り、断ろうものなら大げさに騒いで恵子を悪者に仕立て上げる。つきあう時間のロスを考えてつい協力する恵子も悪いのだが、女のバトルを繰り広げて野郎どもにかわいい後輩に厳しい陰険な女だと陰口を叩かれた経験をふまえると、無駄な争いをさけた方がよほど神経をすり減らさない良案だと思ってしまう。
「きゃー、さっすがセンパイ、やっさしー」
 などという鼻にかかった感謝の言葉をできるだけ感情の波を立たせないように聞き流すスキルばかり、恵子はこの半年で身に付けた。
 とはいえ週末となるとたまりにたまった一週間の疲れがどっと出てくる。日々美の探求に余念のない若い歌井が着飾って踊るような足取りで退社する姿を見れば、なおさら疲れは募った。
 自分は一体何のために頑張っているのだと、そこからは一人胸の内で反省会。もっとうまく彼女を導く力があればと思わずにはいられない。
 歌井が優しいと臆面もなく言い放つ恵子の行動は偽物だ。毅然とした態度でえり好みさせずに仕事をやらせねばならないのが本来だというのに、偽物の優しさでそれをごまかし続けている。
 恵子は肩を落としつつ、ゆったりと家路を辿る。急ぐ必要は何一つとしてない。歌井のように待ち合わせる誰かも存在しないし、家で待っている人もいない。唯一気になるのはアパート近くのスーパーの閉店時間くらいだ。
 いつものバス停でいつものバスに乗れば閉店前にたどり着けるのはほぼ間違いなく、恵子はしばし後輩を忘れバスに揺られてまどろみ、降りた後スーパーへたどり着いた。
 閉店間際というのにスーパーには人が多い。間際の値下げ商品は恵子のみならずたくさんの人に狙われているのだ。恵子は入り口でカゴに手をかけると、慣れた足取りで奥に進んだ。
 毎日料理していたのは半年以上前の話で、近頃はそんな元気もない。毎日外食をするほどの給料などもらっていないから、狙うのは半額を切った総菜各種だった。
 それなりにおいしく一人で料理していた時よりもバリエーションが豊かなのが利点で、当たりはずれがあり油っこさやカロリーなどが気にかかるのが欠点か。できるだけローカロリーのものを選ぼうとしてしまうのは年齢の上がってきた証拠だろうと恵子は思う。
 煮物と和え物のパックをカゴに入れ総菜コーナーを去り、お菓子コーナーでいくつかスナックを見繕う。明日の朝食用にパンを買おうとさらに進んで一つカゴに入れた。
 最後にレジに行こうとした恵子の足が止まったのは、パンコーナーの端でのことだった。
 普段見ない平台が設置され、その中央に立てられた鮮やかなポップに「月を愛でよう」と大きく書かれてある。ポップの角には丸い月が描かれ、その手前にススキと団子のイラストが添えられている。さらには中秋の名月の説明が簡単に書かれていた。
「あぁ、そろそろそんな時期か」
 ポップの周りには様々な種類の団子が並んでいる。恵子はしみじみと漏らし、おいしそうなパックを一つ手に取った。



 会計を済ませて外に出た恵子が空を見上げると、なるほど名月が近いというだけあって円形に近い大きな月が見えた。
 季節の移り変わりに目を向けなくなってからどれだけ経ったのだろう――余裕がない生活が恵子をすっかり季節に疎くさせたようだった。空には月だけでなく、ちらちらと星も瞬いている。街灯の明かりの下からだって、それなりの数の星が見えた。
 意識して空を見上げたのもどれくらいぶりだろう。
 季節感のない自分に少し落ち込んだけれど、深い闇がそれを吸い込んでくれたのかしばらくして気を取り直した。
 恵子は自室に戻ると大きく窓を開け放ち、ベランダに蚊取り線香をたく。総菜と冷蔵庫に入れてあった冷やご飯入りのお茶碗をレンジにかけると、窓辺に折りたたみテーブルを運んで台所にとって返す。
 数度行き来を繰り返した後、テーブルの上には夕食の支度が整った。
 隣家の屋根ギリギリではあるけれど、窓からは月の姿が見える。普段つけているテレビも付けず、部屋の中から月見としゃれ込むのも悪くない。
 闇に染まる空を飾る月と星はとてもきれいで、心が洗われるよう。
「たまにはこんなのも、いいかもね」
 ゆっくりと食事をすすめながら、恵子はぽつんと呟いた。
 いつもの食事はもっとせわしない。疲れて帰ってくるものだから体が休息を求めていて、追い立てられるように急いで食べ物を胃の中にかき込む。おいしいおいしくないくらいはわかるけれど、半分お茶で飲み込むようなそれは充実した時間とはほど遠かった。
 テレビの雑音もないゆったりとした今は、それとは全く違っていた。目に見えるのはまるですべてを包み込むような優しい光を放つ月。味気なく感じていたご飯もゆっくり咀嚼すれば甘みがあり、おいしく感じる。
「食欲の秋だしね」
 朝起きると身支度をして出掛け、夕方まで働き、帰って食事と風呂を済ませて寝るだけ。休日は疲れを抱え、それを癒しきることもできずに惰性で過ごしていた。
 抜け出せない悪循環を歌井のせいにして、努力を怠ったのかもしれない。少し気持ちを切り替えてゆっくり食事をするだけで、気分がいくらか浮上したから不思議だった。
「月の魔力ってヤツかしら」
 言った瞬間恵子は恥ずかしくなって、誰もいない部屋をきょろきょろと見回した。恥ずかしさを誤魔化すように両手で頬を叩いて再び月を見上げる。
 闇に浮かぶ月は変わらず恵子を優しく見下ろしてくれている。ああ、いいなあと恵子は心中漏らした。
 恵子を導いてくれた先輩が、まさに月のような人だった。時に厳しいこともあったけれど、つかず離れずのところで見守り、困ったときはそっとフォローしてくれるような、そういう人。
 恵子のように思わず手を出して後輩の成長を阻害するようなことも全くなく、自分の仕事が進まないことにはストレスがたまっただろうにそんな素振りも見せず、根気強くつきあってくれた。
「ぜんっぜん、出来てないよね、私には」
 歌井の態度ばかりを心の中でなじっていたけれど……自分にも反省点はあったかもしれない。
 正直、歌井の顔を思うだけで納得いかないところは次々に思い浮かんだが、恵子は頭を振ってそれを追い出した。
「もうちょっと、頑張ろうかな」
 前向きな言葉を口にして恵子は自分に言い聞かせる。輝く月がその頑張りを見守ってくれる気がした。

 ものかき交流同盟 様の秋祭りに参加した作品です。

2007.12.14 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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