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怖いくらい幸せで

 俺はこの二ヶ月と十七日ほど、日々現実を疑って生きている――というと大げさだろうが、そうなんだからしょうがない。
 別にその時突然異世界に召還された訳じゃない。仮にそうだとしたら、現実じゃなく正気を疑っているだろう。もちろんその日から急にまるでギャルゲーの如く身の回りに可愛い女の子が幾人も現れたわけでもない。それなら素直に戸惑ったと思う。
 実際にあったのは俺の身の丈にあった事だった。端的に言うと彼女が出来た。何お前大げさな例え出してるんだって思ったか?
 だが実際、俺にとっては驚天動地な感じの出来事だった。頼むから大げさな事言うなって言うなよ。生まれて十八年と七ヶ月彼女いない歴を更新し続けてきた俺には驚くべき事件だったんだから。
 彼女の名前は園田雪子。バイト先で知り合った。だがそれまでロクに会話したこともなく、その会話も必要最小限だった。仕事中に無駄話が出来ない環境なんだ。土日に一日バイトでも休憩時間が重なることがほとんどなかったので仕事上必要な言葉を交わす程度だった。
 なのに、あの日俺にとっては奇跡的な信じられない出来事が起こった。



 その日はたまたま上がりが彼女と同じ時間で、当然男女で更衣室は別なんだが偶然着替えた後に裏口ではち合わせた。レディファーストなんてガラじゃないが、俺は紳士的に彼女に先を譲った。
 正直に言うと、ケータイでメールを打っていたからそうしたんだが、メールを送信してケータイをケツポケットに突っ込んだ俺が扉をくぐると、彼女がまだそこに立っていた。
 夜八時過ぎで裏口の辺りは暗く、もう帰ったもんだと思ってた彼女がいたのを見て正直びびった。普段だったらそんなことはないが、よそ見の後にふと前を見た時、薄明かりの中に顔見知りの顔が見えたら心臓が跳ねるぜマジで。
「お疲れさん」
 とかなんとか俺は声をかけた。仕事上がりの時も、裏口でも同じ事を言ったと思う。だがとっさに気の利いた言葉を吐けるほど俺は語彙が豊富じゃないし、彼女があんまり思い詰めた顔に見えたもんだから、余計に何も浮かばなかった。
 後の経緯を考えるに彼女は思い詰めていたわけではなく、おそらく緊張してたんだと思う。
 俺の声かけに彼女はただうなずいた。そのまま立ち去れば良かったのかもしれないが、立ち去りがたかったのは彼女の表情が気になったからだ。さっさと移動しなかった自分を今は褒めたいが、当時は立ち去るタイミングを逃したとひどく後悔した。
 ほとんど知らない人間の思い詰めた表情が気にかかったからって、簡単にどうしたんだなんて聞ける訳がないだろうとタイミングを逃した後で遅れて気付いて、内心俺は舌打ちした。
 そんなだから何も言えず、彼女も思い詰めた顔のまま黙り込んでいたら、当然俺たちの間には沈黙しかない。たとえ表の方から車の走行音が聞こえていようが、今出てきた扉の奥から活気が伝わってこようが関係ないくらいに、何故か俺たちの間は妙に静かで気詰まりだった。
 逃げを打とうとじりじり足を動かしても、完全に動くには至れない重い静寂。ほのかな明かりに照らされた彼女は、普段見る明るい様子に比べて遙かに儚げに見えた。
 そこまで親しくないもんだから、会話のきっかけがつかめない。いや、俺だって普段なら適当に適当な話ができるけど、残念ながら空気が重い中軽い話をはじめるほど剛胆じゃない。
「……あのっ」
 彼女が裏返ったような声を上げたのは、幾度かめの逃走に失敗した後だった。繊細なとは言えないが、俺よりは華奢な手をぎゅっと握りしめて、思い詰めていたような顔には悲壮感のようなものを漂わせて。
 だけど、俺をまっすぐ見る目には力があった。
 そこまで親しくない俺でも、彼女が彼女らしくないことはなんとなくわかった。必要最小限の交流でだって、少しは相手の性格が透けて見える。俺の知る限り、園田雪子という女はもっと明るい人間だった。
「なんだ?」
「貴方が好きです!」
 不審に思いつつ平静を装って聞いた瞬間に返ってきたのはあまりにも直球な言葉。
 驚いた。こちとらこれまでモテた試しがない。そんな俺に好きですだって? 一瞬彼女の正気を疑って、自分の耳をも疑った。最後に頬をつねって現実と悟る。
 衝撃の言葉が抜けた後は、何かの冗談ではないかと思った。直球すぎる言葉も、罰ゲームか何かでそうしたのだと仮定すれば、他に言いようがなかったとも考えられる。
 でもそう親しくなかったが、彼女がそんなことをする人間には思えなかったので、現在に至る。若干疑わしくとも生まれてはじめて彼女ができるという誘惑には勝てなかった。据え膳食わぬはってヤツだ。
 今あまりにも幸せで、それが少し怖い。彼女は俺のどこが好きになったんだ?
 自分から今更聞くのもどうかと思うと聞けもせず、俺は常に現実を疑って生きているってわけだ。彼女も幸せそうだから心配ないと思うんだが。

2009.03.04 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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