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扉を開けて

 扉を開けた瞬間だった。
 彼女は凍りついたように動きを止め、呆然と立ちすくんだ。
 それは数秒ほどのことだったと思う。
 やがて端から見ても分かるくらいに、はっきりと肩が震え始め、そして。
「言い逃れが出来る、と思ってないでしょうね?」
 彼女が鋭い声を飛ばしたのは僕に対してだった。
「え?」
 いつもは柔らかい彼女のまなじりがなぜだかつりあがって僕を睨みつけ、意味がわからないながらたじろがずにいられなかった。
「ねえ、言い逃れっていったい何の話」
 本当に、誓って、僕には突然非難された理由に心当たりがなかった。
 僕たちはとてもうまくやっていたはずで、彼女が気に入らないことは「出来る限り」という注釈は必要だけど、避けてきたはずだった。
 共同生活が最初からうまくいくなんて思ってはいない。お互い折り合いをつけながら、押すところは押して引く所は引きながらなんとやってきたはずで。
 ――冷蔵庫の扉を開けた後で、いきなりきつい言葉を掛けられるようなことは誓ってしていない。正直、冷蔵庫に化粧品を保管しているのはどうかなと思うけどわざわざ口に出して言ってはいないし、気に入らないから隠すなんて小学生でもないんだからしているわけもない。
 自分に非はないと信じていたし、非難されるいわれはないと思っている。
 余裕を持って優しく問い掛けた僕を、でも彼女は鋭く睨むことをやめてくれない。
「誤魔化す気?」
「誤魔化すも、何もさ」
 どういうことだ問い掛ける前に彼女はリビングでゆっくりしていた僕のところに詰め寄ってきた。
 こちらを睨みつける瞳に、憤りと悔しさが滲んでいる。
「わかってるのよ」
「だから、一体、何が?」
 さっぱり意味不明だった。原因であろう冷蔵庫の扉はいまだ開け放たれたまま。その中身を想像しても、僕はほとんど知らない。
 毎日の楽しみのビールと。牛乳やヨーグルト。マヨネーズなどといった調味料。僕にわかるのはその程度で、他に一体どんな食べ物が潜んでいるのか、考えてみたこともない。
 そうだ。
「もしかして、昨日の残りの肉じゃがを食べたのはまずかった?」
 ふと思いついて問い掛けると、彼女の眉間にしわがよった。はっきりと不機嫌な兆候だった。
「夜に出そうと思ってたけど、なければないでそれはいいわ」
 突き放すような言い方にさすがにカチンと来る。でもここで言い返すのはうまくない。
 弱気だと言われたらその通りだけど、彼女をさらに怒らせるのは大変よろしくない。せっかくの休日にギスギスした空気を蔓延させるのは精神衛生上問題があると思うし。
「それよりもっ、問題はっ!」
 黙りこんだ僕に対する彼女は、区切るようなスタッカート。
「私のヨーグルトを黙って食べたことよ」
「え?」
「え、じゃない。何でわざわざあれを選ぶのよ。分けて置いておいたのに」
「そんなこと言われても」
「四の五の言うなッ」
 四の五のって……いや、別に言葉のチョイスは自由だけどさ。
 彼女が深呼吸をするのを僕はじっと待った。朝、目覚めの遅い彼女より早くに起き出して、冷蔵庫にあった肉じゃがとヨーグルトは食べた。彼女はヨーグルトが大好きで、大抵何種類かストックしてある。一つだけ分けてあったものの賞味期限が一番早かったから、僕としては気を利かせたつもりだったんだけど。
「あれが最後だったのに……」
 下の段にストックはあるだろうとは、今の場合は多分言ってはいけないんだろう。
 深呼吸の後に落ち着いたのは間違いない。でも落ち着いたついでに怒りから一転、明らかに落ち込んだ彼女の声を聞くと強くは出られない。
「期間限定、ミラクルバナナヨーグルト……」
 弱々しく呟くと、彼女はじっと僕を見た。さっきまでの怒りはどこかに消えた、捨てられた子犬のような瞳。
「え、えーと、ごめん?」
 僕と彼女との間では、彼女の方が断然強い。惚れた弱みってヤツだろう。決して僕が弱気だってわけじゃなく。
「誠意がないっ」
 女は感情の生き物だっていう。どんなに納得がいかなくても、引くべきは引くべき、なんだろう。
 たぶん……きっと――おそらくは。
 冷静に反論したら長引くだけだし。
「悪かったよ」
 だから僕は、神妙な顔を心がけて口にする。
「あれ、もうどこにも売ってないの?」
「どこにも売ってない」
 彼女は口々に近所のスーパーやらコンビニの名前を挙げた。相当探し回ったらしいとわかると、言いがかりに近い言葉を投げかけられた後でも多少は本当に申し訳なく思えてくる。
 よしよしするように彼女の頭をなでて、誤魔化しながら思案する。
 ギスギスされるのも遠慮したいけれど、じっとり落ち込まれるのもどうかと思う。
「まだどこかにあるかもしれないから、遠出してみる?」
「あるとおもう?」
「わからないけど、お詫びに努力はしないとね。この辺にないチェーン店とか重点的に、ドライブがてら行ってみよう?」
 微笑みかけると彼女はこくんとうなずいた。
 本当は一日家でゆっくりするつもりだったけど、まあしかたがない。
 早速準備をすると駆けだした彼女を見送って、僕は長いこと開いたままだった冷蔵庫の扉を閉じた。

2006.05.26 up
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※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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