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番外編2 私とにーちゃんとコヒメ

「頼むよ〜、コヒメ」
 寝ぼけ眼をこすりながら廊下を歩いているときに、心底困ったような声が聞こえた。
「んん?」
 私は一瞬動きを止めて、まじまじと進行方向にある扉を見た。
 扉はちゃんと閉められていて、ちょっとやそっとじゃ中の声が聞こえることはないはずで、と言うことはつまり今の声は結構な大きさのものだったってことになる。
「そんなに機嫌を損ねるなんて、どうしたんだー? 俺が何か悪いコトした?」
「んんんー?」
 なあ、なんて声は続ける。
 日曜日午前八時ちょっと過ぎ。我が家のリビングダイニング。
 聞こえる声はどう考えても一昨日家に帰ってきたにーちゃんのものだ。
 途中に声変わりを挟んだとは言っても、十数年親しんだにーちゃんの声を聞き間違えることはないと思う。自分の家でにーちゃん以上ににーちゃんの声の人を見つけるなんて不可能、だよね?
 でも……コヒメって誰。
「寝ぼけてるのかな、私」
 とりあえず近くの洗面台に寄り道して顔を洗う。さっぱりとして目が覚めた。
 そうして再びリビングダイニングに向かうと……。
「頼むよコヒメちゃん。君がいないと俺は駄目になる。いい子だから機嫌を直して」
 にーちゃんが心底困ったように嘆願する声が聞こえてきた。
 にーちゃんはでっかいスポーツバックを持って一人で帰ってきた。コヒメなんて家族は家にはいない。電話で彼女と話していると仮定しても、にーちゃんの彼女はコヒメなんて名前じゃなかった。
 妹の私が言うのもなんだけど、にーちゃんはかっこいい。天は二物を与えないって言うけど、にーちゃんもかっこよくて頭がいいかわりにちょっと変わった人だ。
 変わってるのが災いしたんだと思う。
 見た目の割にもてた試しがない――と、少なくともにーちゃん本人は強く主張している。
 それが本当かどうかはわからない。私が見るところ、にーちゃんは軽く女性不信な人で、もてたところで敬遠してたってのもあると思う。
 だからにーちゃんの彼女って存在はかなり貴重で、私の知る彼女さんと仮に別れたとしてもすぐに次の人が見つかったなんて思えない。
「いつまでも機嫌を損ねるのはやめよう?」
 私は何でか恐る恐る取っ手に手をかけて、扉を引いた。
 携帯を片手ににーちゃんが困った顔をしてたらどうしようかと思った。私はにーちゃんの彼女さんが嫌いじゃないし。
「なあ――あ、おはよう未夏」
「えーと、おはよーにーちゃん」
 扉が開いた音を感じ取ったのか情けないような声を出していたにーちゃんは顔を上げた。
 目の端をにっこりさせてあいさつしてくるから、私も返した。
 戸惑ってしまったのは、にーちゃんが手にしているのは携帯じゃなくマグカップだったから。しかも父さんも母さんも恒例のウォーキングに出ているみたいでにーちゃん一人きり。
「――誰と話してたの?」
「え?」
 声に不審が滲むのは仕方ない話で、にーちゃんはきょとんとした。特に意味はないんだろうけどマグカップが上下に揺れて、最後ににーちゃんはそれをすとんとテーブルに置いた。
「ええと、き、聞こえてた?」
 バツが悪そうな表情に私はこくりとうなずいてみせる。
「うっわー」
 にーちゃんは明らかに挙動不審。視線があちこちにさまよって落ち着かない。
「まさか、二股とかしてないよね?」
「えっ」
 にーちゃんより大分離れた位置にある携帯は充電器に鎮座している。ということは電話なんてしてないんだろうから、本当にそう思ったわけじゃない。
「何で二股?」
 半分冗談で言ってみたんだけどにーちゃんはびっくりしたように首を傾げた後で「あのねえ」で口火を切って、いかに彼女が好きなのか熱く語ってくれた。
「大体、俺なんかと付き合ってくれる人、そう滅多にいないよ?」
 最後にそう終わられると返答に困る。
「そんなことないと思うけど」
「それは身内のひいき目ってヤツだよ」
「そんなことないよ」
「うはは、ありがとね、未夏」
 本気にしてない顔でにーちゃんは笑って、私に座るように促した。あれこれとテーブルに朝ご飯を出してくれて、私の目の前に座る。
「ありがと」
「どういたしまして。俺はもう食べたから、遠慮なくどうぞ」
「いただきます」
「ん」
 食べたとは言いつつもにーちゃんはさっきのマグカップを持ち上げて、食後のコーヒータイムとしゃれ込むつもりらしかった。
 ありがたく私はパンを取ってなんとはなしににーちゃんの行動を観察する。
 にーちゃんはいやに真剣な顔つきでテーブルの端っこ、壁に添わせるように置いてあるコーヒーメーカーを見た。
 カップを持った反対の人差し指を恐る恐るといった様子でそろそろ伸ばしていく。電源ボタンをぽちりと押して、それから肩を落とした。
「なんでだー。俺にコーヒーを飲むなと……」
「え?」
 ぶつぶつぼやきながらにーちゃんはこっちに向き直る。
「なあ、かーさんなんにも言ってなかったけど、これ壊れてる?」
「さあ……私は使わないし」
 悲しげな顔で言うにーちゃんはコーヒー大好きな人だ。あんな苦いのをブラックでけろっと飲む。
「未夏が冷たいー。ああもう、なんでご機嫌斜めかなあ」
 にーちゃんはますます悲しそうに言いながら、マグカップを両手でごろごろといじくった。
「俺がいないうちにやってきたからって、まさか人見知りしてるわけじゃないだろうし……」
「まあ、そうだろねぇ?」
「なんでかーさんインスタント切らしてるかな。朝の一杯がないと俺、生きていけない」
「またそんな大げさなこと言って」
「くう。未夏といいコヒメちゃんといい俺に冷たくないかい」
「冷たいというか……って、にーちゃん。コヒメってもしかして」
 普通に返答をしかけてから、違和感に気付いて私はにーちゃんとコーヒーメーカーを見比べた。
「にーちゃん、それ、コーヒーメーカーのこと?」
「え、あー……ええと、そう」
 にーちゃんははにかむようにうなずいた。さすがに恥ずかしいのか目線がそれる。
 コーヒーメーカーを略してコヒメ。
「にーちゃんはずーっとにーちゃんだよねぇ」
 昔はテレビをテレゴンと名付けてみたりとかそういうことをしていた人だった。もう二十歳にもなろうかってのに、にーちゃんはある意味ちっとも成長していない。
「そりゃあ、一生未夏の兄ですとも。血がつながってんだから」
「そうじゃないんだけど……いや血のつながりとかはそーだけど」
 何とかは紙一重っていうよなあなんてにーちゃんを見ると思ってしまう。特に眠気に支配されたときのにーちゃんははっきり言ってテンションがおかしい。
「――まあ、私だからいいけど、それ彼女さんの前で言ったら駄目だからね? コヒメ、君がいないと生きていけないなんて言ってたら振られちゃうよ」
「なっ……! そ、それは困るー!」
 にーちゃんはあたふたとマグカップから手を離した。コーヒーメーカーから離れるように身を引いて内緒ねなんて言ってくる。
「そりゃ、黙ってるよ」
 ああまたかーって思われそうな気がするけど、にーちゃんの馬鹿なところを彼女さんに言うのも気が引ける。それに私、彼女さんの連絡先知らない。
「それにしてもどうしたんだろうねえ」
 朝ご飯を中断して私はにーちゃん曰くコヒメちゃんに視線を向ける。さっきのにーちゃんと同じように電源ボタンを押して、それから目線を移動して。
「ねえにーちゃん」
 静かににーちゃんに呼びかけた。
「未夏でも駄目ってことは俺が悪いんじゃなくて壊れたのかな」
「えーっと、にーちゃん」
 見当違いの事を言ってくるにーちゃんに私は首を振って見せた。何と言っていいかわからないまま、テーブル下を指し示す。
「うん?」
 首を傾げながらにーちゃんは私の指先を追った。
「……」
 そして、押し黙る。私もそれに倣ったから、部屋ががしーんと静まりかえる。
「………基本的、だなあ」
「うん、そうかも」
 やがてにーちゃんはぽつりとつぶやいて、私は控えめにうなずく。
 視線の先には黒いコード。コンセントは刺されてなくて、虚しく床に転がっている。
「そりゃ、電気が入ってなきゃ、ボタン押しても使えないよなあ」
「――そーだね。にーちゃん何時間寝たの?」
「えーっと、気付いたら二時を回ってて、それからしばらくして布団に入ったけど」
「それで私より早起きって、睡眠時間足りてないと思うよ」
「ぬ、でもいつもそんなもんだしー」
「もんだしーじゃなくって。睡眠時間足りてなくて、寝ぼけ頭でコンセント入れてないから動かないコーヒーメーカーに語りかけるなんて、さすがにちょっと……人様にはお見せできない姿だよ」
 個人的には面白いんだけど、にーちゃんは突然何を言い出すかわからないからちょっと怖い。
「さすがに人前じゃやらないよ」
 にーちゃんはちょっと顔をしかめた。
「とーさんもかーさんも出かけちゃうし、未夏は起きてこなかったしちょっと寂しい気分だったんだよ」
 寂しいからって普通はコーヒーメーカーに名前つけて語ったりしないんだよにーちゃん。そーゆーとこがにーちゃんだなーとは思うけど。
「未夏の眼差しが冷たい」
 いじけるふりをするにーちゃんから逃げるようにコンセントを刺して、それからコヒメちゃんの電源を入れる。
「冷たくなんかないよ。ねえ、せっかく話し相手が起きてきたんだから、何か話してよにーちゃん」
 いじけていたにーちゃんは弾けるように顔を上げ、満面の笑顔であーだこーだと話し始めた。

2006.04.17 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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