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四章 8.真面目な官とその主
求める場所に主の姿がなかったので、彼は顔をしかめた。
生真面目そうな顔つきの中年の男だ。
「どこに行かれた?」
呟く。ノブを引くと今覗いたばかりの室内が見えなくなった。
王の執務室、その前で。
視線を移動させると、かしこまっている護衛兵が見えた。
睨み付けたわけではないけれど、そんな風に思ったのだろう。兵士はびくりと体を揺らした。
「陛下は寝殿に行く、とおっしゃってました」
「寝殿?」
こくこくこく。護衛兵はものすごい勢いでうなずいた。
(そんなに私は恐ろしい顔をしているだろうか?)
なんとなく不満に思いながら彼は眉を寄せる。
「ふぅむ」
定期的に執務室を訪れるのは、習慣でもあり仕事でもある。
確かに王は忙しい方だ――執務室にずっと篭もりっぱなしというわけでもない。定期の報告ならば、また時間をずらせばいいだけの話なのだが、時と場合によってはそうもいかない。
「それにしても寝殿だと?」
彼は不思議そうな顔をして、とりあえずそちらに足を向けた。
「さて、と」
サナヴァはウォークフィードの姿が見えなくなるまで彼を見送ったあと、傍らの妻に視線を移した。
「どうしようかな?」
ルディアは柔らかい笑みを浮かべたまま夫を見返す。
「さあ、どうしましょうかしら」
応じてそう呟いてから、小首を傾げる。
「でも、お仕事があったんじゃないかしら?」
「思い出さなくていいことを……」
放り出してきた書類のことを思い、サナヴァは顔をしかめる。
エルムスランドには有能な人間が多いと彼は思っているけれど、だからといってすべてを部下に任せきりにすることもできない。最終的な決済はどう頑張っても人には任せられない。
王であるからには、国民すべてに対する責任を負わなければならない。それは義務なのだ。
それはわかっているけれど、書類と格闘するのはできることならば誰かに押しつけたいところだった。忘れされるなら忘れたいところでもある。
「こんなにいい天気に室内に引っ込んでいるのは太陽に悪いとは思わないかい」
「外でお仕事はかまいませんけど、大事な書類が風で飛んだらどうします?」
「……いや、それはさすがにしないけど」
妻の言葉が本気なのか冗談なのかわかりかねて、サナヴァは困惑した顔つきになる。ルディアはその様子をくすくす笑った。
「確かにいい天気ですねぇ。午後、馬車馬のように働く覚悟はありますか?」
「ん?」
ものすごい例えにサナヴァは不思議そうに首を傾げる。
「ピクニックでもしませんか? あの子たちも呼んで。なかなかこんな機会なんてありませんから――そのかわり午後のお仕事が大変になるでしょうけれど」
「うーむ」
いろんなことを天秤に掛けて、サナヴァは考える。
「いい場所に心当たりはあるのかな? あまり人目がつかないところがよいけど」
「いざとなったらまためくらましをしますから」
ルディアは笑顔で請け負う。
「じゃあそうするかな」
「はい。お料理は任せて下さいね」
「期待しているよ――」
二人はにっこりうなずきあって、とりあえず歩き始める。
だがその足はすぐに止まった。最初に気付いたのはサナヴァで、それを不思議に思ったルディアが次いで気付いた。
「やあ」
サナヴァがゆっくりと手を挙げて、やってきた人物に笑いかけた。
黒髪に黒い瞳、真面目そうな――というか実際真面目な男だ。
「どうしたんだい、レッツィ。どうしてこんなところに?」
「同じことをお尋ねしたいですが」
サナヴァは笑みを深める。
「天気がよいから、散歩だよ」
男は顔をしかめた。
「お仕事を放り出すのは感心しませんが――まあ、それはどうでもよいです」
「え」
普段の彼を知っているだけにサナヴァはその言葉に驚いた。くどくど説教が始まるかと思っていた。まあそんなものがはじまってもすぐ煙に巻くつもりだったけれど。
「大事なお話が」
目を丸くする主のその驚きの表情には目もくれず、彼は声をひそめた。
「どうした?」
サナヴァは彼に合わせて真面目な声を出す。
「お耳を」
「うん?」
男は一歩主に近づくとその耳に口を寄せた。
「宮内にくせ者が」
「ほう」
「金髪の女です。侍女の変装をしていたと報告がありました――私どもの力が足りず、申し訳ございません」
サナヴァは顔をしかめて、男を見据える。
「その不審な者は寝殿の方に駆け抜けていったそうです――陛下は何故こちらへ?」
「んー」
探るような視線だった。
後で問うつもりだったから説教がなかったのかとサナヴァは納得した。
「魔法使い達が寝殿に異常な魔力を感じたらしいのでね。中に入って調べてきた」
「寝殿の中にですか?」
「そんな顔をしないでくれレッツィ。彼らは自分たちで調べたがったんだから――その方がよっぽど問題だろう?」
「うむむ」
どちらも問題ですと真面目な彼は今にも言い出しそうだったけれど、サナヴァは得意の笑顔でその言葉を封じ込める。
「それで?」
「……は。ですのでくせ者を捜すために配下の者を動かしております」
「ラインワーク達も動いている。彼らに協力しなさい。異常な魔力が――そのくせ者とやらが原因かもしれないから」
「承知いたしました」
「任せたよ。それから……寝殿にも何名か配置しなさい」
「心得ました」
「――寝殿周辺にあまり人が入らないようにすること。いいね?」
「はい。陛下も早くお戻り下さい。くせ者が仲間を引き連れていないとも限りません」
サナヴァはレッツィの言葉ににっこりと笑う。
「心配には及ばないよ、レッツィ。私を誰だと思っているんだい?」
「エルムスランド国王陛下です。陛下がお強いことはわかっております――ですが、御身に何かあれば我々臣下をはじめとして国民すべてが困ります」
言われてサナヴァはそれこそ困った顔になる。
「ピクニックに行こうと思っていたんだけど」
「……は?」
間の抜けた声を出してレッツィが目を見開く。その顔には徐々に怒りに似た何かが浮かんだ。
「何を考えておいでですかっ!」
「うん、だからピクニック?」
「寝殿に魔法使いが異常を感じ、私がくせ者の存在をお知らせしたその後で、なおそのようなことを言われるのですか? いやそれよりも! 執務を放り出したまま何故ピクニックなのです!」
「天気がいいから、たまには娘と一緒にと思ってね。どうだい、一緒に?」
しれっとした顔で言ってのける主にレッツィは何とも言えない表情を向ける。
「おやめください。くせ者が侵入していると明らかにわかっているというのにのに、何をおっしゃいますか!」
「その金髪の侍女とやらは本物かも知れないだろう。金髪の者は何人もいるだから」
「侍女の一人が、見たこともない怪しげな女だったと言っておるのです」
なるほど、と心の中だけで呟いて、
「そのくせ者は我が宮内の侍女が少数精鋭だと知らなかったらしい――不注意なことだね」
口に出してはそう続ける。サナヴァは傍らの妻に困ったような笑みを向けた。
「ピクニックは諦めざるを得ないかな?」
「うーん」
ルディアは夫に同じような困った微笑みを返しながら、軽くうなった。
「仕方ないですねぇ」
「せっかく良いアイデアだと思ったのにねぇ」
「当然ですっ。ご自身の立場をお考えになって下さい!」
どこかのんびり言い合う国王夫妻に、レッツィは声を張り上げる。
真面目で真剣な調子の彼の言葉にサナヴァは降参とばかりに手を上げて、渋々諦めるんだよと言わんばかりに大げさにため息をついた。
「ピクニック気分で昼食を。その辺で妥協するしかないかな」
「どうするおつもりですか」
ピクニック気分の意味が分からない。
「バスケットに昼食を詰めて、娘のところへね。外で食べることが出来たらいい思い出になると思ったんだけどねえぇ?」
不思議そうに問いかけるレッツィにそれはそれは無念そうな口調でサナヴァは説明した。
「そうですか」
レッツィはその無念そうな声と顔からはちょっと目をそらして、何でもないことのように呟く。
視線を合わせれば最後、何となく言い含められそうな予感がしたので。
その様子にサナヴァは苦い笑みを見せて、今度はこっそりとため息一つ。
お互いにこれ以上譲れないだろう。
レッツィの言い分もわからないわけでもない――自分がくせ者とやらに後れをとる訳がないとサナヴァは思っていたけれど――臣下がおかしいと主張する中ふらふらと国王が出歩くわけにもいかないだろう。
自分はかまわないけれど、たぶんレッツィやラインワークをはじめとした部下の心臓に負担がかかる。有能な部下に心労で倒れられでもしたら巡り巡ってしわ寄せが自分のところに来るのだから妥協せざるを得ない。
「まさかそれまで止めまいね?」
「早めに切り上げられませんと、午後の執務に差し支えますよ」
主が強引に主張を通そうとしないのを確認して、レッツィは軽く忠告した。
「わかっている。では任せたよレッツィ――また後で詳しい報告を頼むね」
さらっと言ってサナヴァは歩き始めた。
優しく微笑んだ王妃がレッツィに一礼してその後に続く。
取り残されたレッツィは細く息を吐き出して、頭を振って思考を切り換えた。
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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