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1.三枝さんと女よけ
その人との出会いは四年と少し前にさかのぼる。部署の入り口のところで書類を渡されて、軽く項目を確認して言葉を交わしたのが最初だ。
「書類は本人に提出して頂きたいんですが」
渡された書類の中身は、実はもうよく覚えていない。だけど言った言葉はよく覚えている。
出会った日はいまいちパリッとしないスーツ姿だったように思う。ぬぼっとした印象の、少し年上の男。
「はあ?」
瞬きをしながら私が返した書類を見下ろして、彼は間の抜けた声を出す。
「いや、これ俺のだけど」
ぼそぼそっと彼は続けた。言い方がはっきりしない男だと思ったのをよく覚えてる。
彼が再び差し出した書類は、ご丁寧に私の方向を向いている。内容には誤りはなかったから、私は名前をじっと見た。
「でも、これ、名前……」
記名に印鑑も問題ない。あとは当人確認さえ出来ればいい、そういう書類だった。
「だから俺のだって」
「でも、これ女性の……」
言いかけた私の言葉は、「ああ……?」という彼の不意に低くなった声に阻まれる。心なしか首筋に寒いものを感じて、私が恐る恐る顔を上げると、彼は薄ぼんやりした印象をがらりと変えていた。
「どこがだ。言ってみろ」
「ええと、さえぐさ……」
命令口調にはかちんと来た。でも、はっきりしない態度から一変して、きっぱり威圧的に言い切られたものだから、反射的に答えてかけてしまった。
そしてそこで、はたと思ってしまったわけだ。
「……えっと。さえぐさ、ゆうき……?」
気を取り直して言ってみたのはいいけれど、さっき気付かなかったことに気付いてしまった。
私の一瞬の逡巡を彼は鼻で笑う。
「もうちょっと考えて読めよ。とものり、とものりって読むんだよ。さえぐさとものり」
だからこれは俺のだと、彼は私に書類を押しつけた。
三枝友紀。字面が柔らかいものだから、てっきり女の人かと思っただけで、そこに他意はない。あまりの剣幕で言われたから、「ゆうき」って男の人もよく考えればいるし、一瞬男の名前でもありかなあと思ったけど。この漢字なら「ともき」もありかな。
でも、言われてみると「とものり」の方が普通な名前だと納得できた。
「すみません。字がきれいだし、字面も可愛いものだからてっきり女の人かと思ってしまって」
いつもより丁重に頭を下げながら私は言い訳した。素直に書類を受け取って、もう一度目を落とす。
パリッとしない容貌と、はっきりしないしゃべり方に似合わないきれいな字。見た目の印象で決めつけて悪かったなと反省した。
彼――三枝さんは、何とも言い難い顔をした。笑顔のようにうれしそうもないし、苦笑ほど苦々しくもない。呆れていたのかもしれない。
「しばらくはちょくちょく来るから、次は間違えないでね」
ため息のようなものを漏らしてから、三枝さんは呟いた。いまいちはっきりしない口ぶりに戻ったのは、呆れかえって怒る気力がなくなったからか。
――ともかく、それから三枝さんは本当にちょくちょく私の前に現れるようになった。
三枝さんは鈴ヶ根大の文学部卒で、私の三つ上、営業部の所属だった。
営業部の重鎮・細田部長に目をかけられ、各地を転々としていた流浪の敏腕営業マンだと聞いた時には耳を疑ったけど、本当に有能な人なのだとしばらくするとわかった。
普段のぼんやりとした様子は偽装で、ひとたびその偽装をはぎ取ると真実の姿が現れる。怒っている時に似た堂々とした態度で丁寧にきっちり説明をくれて、アフターフォローも万全――だとか。
入社して十年ほどの間にあちこちの支社に飛んで、各地で大口の契約を取って来た出世頭なのだと噂に聞いた。
脂ののりつつある三十代前半。出世頭というオプションがついていれば、それはそれはもてていた。しばらくは本社勤務になったこともそれを後押ししたんだろうな。
でも、彼にまとわりつく女性が裏で打算にまみれた発言をしているのを聞いたことがあるから、そのもてっぷりはけしてうれしいものじゃなかったのだと思う。
「どうせそうのうちまた転々とするでしょ。今のうちに縁を結んで、マンションでも買って、足場を作ってから単身赴任してもらえばいいわよ。浮気する甲斐性もないだろうし、真面目にお金を運んできてくれそう」
そんな馬鹿な発言を耳にしたことがあるのか、ないのか。それは三枝さん本人に聞いたことがないからわからない。
だけど、聞いていないとしてもそれを悟っていたのは間違いないと思う。いつでものらりくらりと誘惑をかわして、半年もした頃には彼に近づく女性は皆無になった。
三枝さんは的確に彼女らに対処した。のほほんとした顔の裏側で、確実に策を練って。
私の目の前にちょくちょく現れたのは、もちろん仕事上細々とした書類のやりとりがあったからでもある。でも、経理部には私の他にもたくさんいるっていうのに彼は私の所にばかりやってきた。私と同じことが出来る社員はたくさんいるのに、必ずだ。
その結果として、普段ぬぼーっとしてはっきりしていない三枝さんと、無愛想でかわいげのない私は異色カップルとして噂されるようになり、いつの間にか三枝さんに言い寄る相手がいなくなっていたというわけ。
仕事とプライベートに明確な線を引きたい私は、社内恋愛をする気がさらさらなかった。三枝さんは出世頭だったけど、だから狙おうなんて恋愛にがっついてもいなかった。
そんな私だから三枝さんは目を付けたんだろう。彼は巧妙に私に近づいて、少しずつ世間話を重ねていったのだ。
三枝さんは、親しくなると話しやすい人で、しかも好きなものが似ていたことが判明して、気付くと社食でお昼を共に過ごすことが増えた。
好きな映画について、熱く語ったことが何度もある。同僚に素を見せるのが苦手な普段の私なら、それは絶対にしないこと。
そんなことが重なって、どこかで噂が生まれたんだろう。
同僚が教えてくれたところによると、三枝さんははじめ些細だった噂に巧妙に尾ひれを付けていったらしい。噂を否定せず、意味ありげな態度でさりげなく私に近い位置を続けてキープして、徐々に噂を煽る。
真実は全く違うのに、いつの間にか公認カップル扱いだ。三枝さんには、私が相当鈍感で無害に見えたんだろう。
人付き合いが薄いのもあって、気付いた時にはすっかり遅かった。すでに営業部の出世頭を何故か射止めた女と思われていて、同期の飲み会で普通に「三枝さんって休日出勤当たり前にしているけど、耐えられる?」とか聞かれたりしたんだから。
慌てて否定しても、相変わらずプライベートを隠したがるねと一言で否定された。
そのうちまあいっかという気分になって、私は三枝さんの女よけの任務を大人しくするようになった。三枝さん、優しかったから。
あまり親しくない女性社員の一派にあからさまに忌避されるようになった原因は、明らかに三枝さんなんだけど。それにきっちりフォローを入れてくれたのも三枝さんだった。
お給料をもらうために、ひいては独り立ちして生きていくためだけに働いていた、それだけの会社だったのに。他の人とは必要最低限の会話だけ交わして行くだけのつもりだったのに。
三枝さんだけ、ぽんと私の線引きを超えてきた。
ぬぼっとした容貌は警戒するようなものでもなくて、話が合ったのだから仕方ない。一緒にいて気疲れすることなんて全くなかったし。
一人で昼食を食べているとすっと前の席に座って、いつの間にか話に引き込まれていくばかりだった。
会社の中で唯一素をさらせる例外。三枝さんもいつもののらりくらりな仮面を商談中以外に唯一私の前だけでは外してくれて。
ほんのちょっとした、些細な時間だった。でもその時間が私にとって大切なものだったということは、すぐにわかった。
2008.01.25 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。
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