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3.帰還の噂

 心に暗雲がたれ込みそうになったら、とにかくゆっくりすることにしている。気持ちに余裕がない時に慌てて何かをすると失敗する――それが母の口癖だった。その影響を受けたのか、ざわざわと胸が騒ぐ時ほど余裕を持って落ち着こうとするのが私の習性になった。
 落ち着く方法は何だっていいわけじゃない。色々と試した結果、紅茶を入れてのんびりするのが一番だと思うようになった。
 やかんでお湯を沸かして、そういう時だけはちゃんとポットとカップを温める。正直、その行動で出る味の差は舌の鈍い私にはわからないから気分の問題。
 夏は濃いめに作ってたっぷりの氷に注いでストレートのアイスティーを楽しむし、反対に冬はたっぷりミルクを注いで甘くする。
 お茶請けには大抵クッキーを一枚。雑貨屋さんで見かけた時に思わず買った可愛いトレーにポットとカップ、お菓子皿を乗せてちょっとしたカフェ気分。普段はしない手間をかけてとっておきのアイテムを出しゆっくりしようとするだけで、条件反射のように気持ちが落ち着いてくるのが不思議。
 暖かいカップを両手で包んでぐっと背もたれに体を押しつけて私はほぅと一つ息を吐き、ずぶりと思考の海に潜り込むことにした。



 三枝さんが帰ってくるという話を私が耳にしたのは今日のことで、それが来週のことだと知ったのも今日のこと。もう金曜日の夜だから、ほとんど二日後には三枝さんが帰ってくるなんて。
 私の所属する経理部は割と人事部に近い位置だというのに、全然知らなかった。とうの昔に決まっていただろう三枝さんの話が欠片も耳に入ってこなかったのは――私が取っつきにくいのが原因かな、とも思うけど。
 それか、私が元・三枝さんの公認の彼女だから、周囲が遠慮したってこともあるのかもしれない。今日知ったのだってたまたまだった。
 それも給湯室で無駄話に興ずる若い子が今度は海外赴任から戻ってくる人の話を声高にしていたから、だ。たまたま三枝さんの名前が出てすでに時が近いと知れただけで、それ以上の情報はない。
 最初の計画だと営業部に戻るのが筋だけど、長い期間じゃないと三枝さんが高をくくっていたのに四年と少し経つくらいだから予想以上の手腕を見込まれてそのまま海外事業部に配属になるのかもしれない。
 当然のことながら私の姿に気付くと彼女たちは散っていき、それ以上の話なんて聞けやしなかった。仕事に直接関わりがないから他の誰にも聞くことが出来ず、私はただ一人心の中にもやを抱えることになってしまった。
 三枝さんのことはよく懐かしく思い出していたし、また会うことが出来たらいいなと漠然と考えていた。会って何か行動できるわけでもないけれど、実際は遠いところにいるから気軽に空想の中で三枝さんと思いが通じる姿を考えたりして。
 でも――三枝さんが帰ってくるとなると話は全然違ってくる。
 空想は自分の好きに出来るけど、現実はそうじゃない。私の中にはずっと三枝さんがいたけれど、忙しい彼が一年にも満たない間、時々ランチを共にしただけの私を覚えているとも限らない。
 だって、もうだいぶん前のことだ。いくら三枝さんが優秀な営業マンで記憶力がよくても、本社の経理の人間まで覚えてるとはとても思えない。経理の中ではよく話した方だから可能性はゼロじゃあないけれど、期待すると後が怖い。
 ほんの少しでも、頭の片隅に残っていたらいいなと思うけど。
 もう一度前みたいに社食でランチが出来たら素敵だなとも思うけど。
 でも……あれから四年も経っている。あの頃は仕事中心で女の人にあまり興味はない様子を見せていたけど、もう――三枝さんも三十六になっているはず、あんなに出来る人に彼女がいないわけはないと思うし、結婚している可能性だって否定できない。
 考えちゃ駄目だと思うのに思いのままに想像の翼が広がりそうになって、私は慌てて頭を振って紅茶を喉に流し込む。
 いつも以上に味なんてさっぱりわからなかったけど、とりあえず気持ちは落ち着いた……と、思いたい。



 週末が明けて今日、月曜日は朝から憂鬱だった。
 金曜日の夜から今朝まで何度紅茶を淹れたかわからない。一人で飲みきれるわけもなくほとんどが無駄に流し台に消えていった事実を考えると、紅茶を飲むということでなく淹れる行動自体で私は落ち着く性質を持っているのだと思う。
 それでも落ち着ききれなかったから憂鬱なんだけど。
 私の心の中なんて知るはずもなく、今日も会社はいつも通り。本日から本社勤務のはずの三枝さんが、本当の本当に社にやってきているのかどうかさえわからないくらい。
 いつも通りじゃないのは気持ちが落ち着かなくて、日頃しないような細かいミスをいくつかしてしまった私くらいのものだ。
 少しずつ増えていく未処理書類の山にうんざりして、気分を変えるためにお茶にすることにする。マイカップを片手に廊下に出て給湯室に向かうと、例によって例の如くテンションの高い会話が漏れてきていた。
 いつものようにうんざりせず、思わず耳を傾けたのは会話の中身が中身だったからだ。
「でで、どうだったのその三枝って人は」
「イマイチ?」
「イマイチじゃわかんないってば」
「海外勤務をしてきたって華々しさはないわね。土台は良さそーだったけど、気が利かなそうな感じ?」
「えー! 噂じゃ出来るって話だったじゃない」
「そうそう、営業の子が部長がようやく戦力が戻ってくるって喜んでたって」
 三枝さんは本当に戻ってきて、古巣の営業部に配属になったらしい。私は足を止めて、さらに耳を傾ける。
「仕事は出来るみたいだけどね。でも、これは先輩に聞いたんだけどさ」
 声を潜めたのか言葉が途切れ、私は少し給湯室に近付いてみる。存在に気付かれてしまったら噂話が止んでしまうだろうから慎重に慎重に。
「えー、うっそ、マジデ?」
 肝心の所は聞きそびれてしまったらしく、次に聞こえたのは驚いたような声だった。
「女の趣味、悪いってことだって」
「経理のお局って、あのいつも無愛想な、あの?」
「他にお局なんていないじゃない」
 私の話――だ。
 不意に出たキーワードに私は数歩退く。
「あんな人とつきあってたって、どういう趣味よー」
「つきあいきれなかったから日本に置いてったんだと思うけどね」
 吐き捨てるような言葉が、胸に痛い。
 わかってる。私が三枝さんに似合わないのはわかっている。それでも、ろくに話したことがない人にそれを言われたくはない。
 まして、私と三枝さんがつきあっていたなんて、真っ赤な嘘なんだから。その事実が余計に痛かった。
 私は反転して、オフィスに足を向ける。さすがに自分の話が出た直後に何食わぬ顔で給湯室に入るなんて出来そうもなかった。

2008.02.07 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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