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4.引きずる想い

 彼女はどこまでも真面目で、親しくなってもどこか一線を引いたところがあった。他の相手になら冗談めかしてデートの誘いでもかけられたんだろうが、少しもそんなことを言えそうな隙を見せない。
 じりじりと時間だけが過ぎていき、だけど何も進展しなかった。彼女は社食でだけ、ごく普通に俺に微笑みかける。そのことと、周りから俺と彼女の交際が順調に見えることだけが俺の救いだった。その気のない彼女を誘えなくてある意味正解だったとは思う。一方通行の思いは膨らんで、下手に外で会う約束などを取り付けたら彼女の気持ちにかまわず暴走しそうだった。
 ままごとじみた社食での休憩時間は俺を癒す反面、もどかしい思いを増幅させる。
 いつまでもこんなことを続けているわけにもいかないと思い始めたのは彼女と出会って一年ほどが経とうとした頃だ。考えたくもなかったが、彼女が俺に気がないのなら他に目を向ける必要がある。
 俺にもそれなりに、将来の夢があった。愛する人と暮らしたいという夢だ。人によっては人生の墓場に自ら赴くのは愚かだと言いそうだし俺も若い頃はそう思っていた時期がある。だけど仕事にも慣れ落ち着いて以降は、自分一人のためだけでなく自分の庇護する誰かのためにも働くことが俺にとって理想になった。上に登り詰めるためだけを目的にするより、誰かのために働く方が人にとってより健全だと思うのだ。
 体力のあるうちに一人は子供が欲しかったし、小さくても住みやすい我が家も欲しい。同期の中では給料がいい方だと思うし、転勤三昧仕事三昧であまり遊んでいないからそれなりに貯金もしている。それでも家を買うとなると金額は膨大だ。支払いのことを考えればローンは早いうちから組むに限る。
 結婚前に巨大なローンを組んでいるのはマイナス項目だし、そうなるとどうしても先に結婚をしなくてはならないだろう。
 真面目な彼女に対しては最初から結婚前提だと告白する方が効果的なのかと悩むこと数日。年長者の、顧客の意見を仰げば玉砕しろと言ったはずの人に突っ走りすぎだと諭される。仕事では強気なのにプライベートが弱気すぎるとも言われたが、商品の金額は目に見えても、人の感情は目に見えない。まして読みにくい彼女の好意がそのうちラブに変わるライクなのか、お友達的なそれなのかは俺にはさっぱり読めなかった。
 もうないと聞いていたはずの異動の話がでたのは言うべきか言わざるべきか日々悶々としていた頃だ。
「聞いてないですよ」
 内々での打診に食って掛かれば、俺に目をかけてくれている細田部長は「私もだ」と苦い顔をした。
「こういうつもりじゃなかったし、正直痛手なんだが」
「俺、英語出来ませんけど」
「履歴書に英検何級だか書いてなかったか? 割とよさそうな感じに見えたが」
 嫌そうな口ぶりの割に、拒否しようとすればそんな返答。
「申し訳ないですが、履歴書の欄を埋めるために書きました。取ったのは高校の頃だし、単語もろくに覚えてないですよ」
 部長は鷹揚にうなずく。それに勇気を得て無理ですと言い切る前に部長は口を開いた。
「海外事業部のたっての希望だ。現地のモノを見れば、戻ってきた後よそに営業するのに説得力も出るだろう。君がスキルアップしてくれるのは営業にとっても悪い話でない――本当に、営業畑に戻してくれたらの話だが」
「ろくに聞き取りも出来ない人間を現地に送ったところでマイナスと思いますが」
「なせばなるというのが向こうの言い分だ。これまでも何人か同じように引っ張られている」
「ですが」
「三枝、お前しばらく前に海事がよこした英語のマニュアルを訳してのけただろう」
 面倒くさそうに手を振って、部長はため息混じりに言った。
「あんな半ピラの紙、ネットで翻訳かけたら大体わかります。直訳でどうしようもないところは想像でフォローしただけで単語がわかるかさえ危ういですよ」
「わからんから訳せとつき返してりゃよかったんだ。お前が英語が出来ると向こうは思っている」
「誤解です」
「誤解だろうが、向こうは要求を引っ込めることはないだろうな。彼女と別れるのが嫌だから断ったんだと思われるのがオチだ。お前の彼女――なんと言ったか――そうそう、経理の畑本女史だったか? 彼女も海事に睨まれたら居心地悪くなるんじゃないのか?」
 その言葉は明らかな脅しだった。海外事業部はうちの社でかなり力を持っている。営業も力のある方だが、若干向こうよりは劣る。気に食わない素振りを見せるものの、部長は断るほどではないと思っているらしい。
「心配しなくとも、そう長い期間じゃない。うちもお前に長いこと抜けられると困る。確定じゃないが半年だか一年の予定だ。いい経験になるから、行っておけ?」
 いたずらに上に逆らうのは得策ではないし、部長にそこまで言われて断るのも忍びない。というよりも細田部長がそう言うのなら、内々の打診であってもほぼ確定なのだと悟る。海外勤務の経歴は今後にプラスするだろうから、そうまで言われて否を唱えられない。
 それに、この機会に彼女に討って出るのもありかと思った。
 そろそろどうにかしなければと思っていたのだから、海外異動はチャンスだ。他の人間にはばればれの俺の想いにちっとも気づかない彼女の反応は想像も出来なかったが、もし空振ったとしてもすぐに彼女の前から姿を消すことが出来る。俺を拒否する彼女を目の前にしなくてもいいし、新しい環境に飛び込めば気が紛れるだろう。
「地方ローリングで修行を積んで、次は海の外だよ」
 彼女にどうアプローチするべきか考えた末、俺は異動が正式に決定した後の休憩時間にいつもの場所で切り出した。
「海の外?」
「そう。海外支社」
 きょとんとする彼女に説明すると、ふうんと一つうなづきが返った。驚いたのかランチをつつく手が止まっていて、期待が膨らんだ。
「海外事業部じゃ、ないのに?」
「あそこはたまによそから人材引っ張るんだ。現地のモノを見れば、よそに営業するのも楽だろってうちの部長がね」
「三枝さんって英語は出来るの?」
「そんなに得意だった記憶はない、かな。まあ、慣れれば、なんとか?」
 驚いてはいるものの彼女は他に何も感じてはいないようで、純粋な疑問を口にした。これは、全く脈がないんじゃないだろうか――そう判断するのに十分な態度だった。
 少しでも脈がありそうだったらすぐにでもプロポーズをしてさらってもいいと考えていただけに俺は落胆した。普段ならそんなことはとても出来ないが、海外赴任を目の前に両想いになれたら彼女を置いていけるわけがない。なにせこっちは、一年近くお預けを食っていた状況だ。
 だが残念ながらその時の彼女の反応は俺の希望とは程遠く、だけどそれでも希望を捨てきれなかった。さりげなく英語能力について尋ねると自信がなさそうだったのですぐさまさらう案は一度脇において、別の手を探る。
 長いこと穏やかな交流を続けてきた俺がいなくなると知り、少しずつ距離が離れれば鈍い彼女でも徐々に実感が沸いてくるかもしれない。出国までに彼女の様子が少しでも変われば――俺がいないことが寂しい様子ならば――すぐさま本当にプロポーズをしてさらえばいいと思ったし、出国後に彼女が俺の不在を寂しく思ったのなら帰国後にもう少しいい反応を見せてくれると思うからその時には普通に告白して段階を踏めばいい。そう思っていた。
 部長の言葉に反して、海外勤務がずるずると延びて数年間に及んだ時には楽観的だった自分に蹴りを入れたくなったが。
 最初は半年の予定で聞き、半分を過ぎたところで一年に延びた。初めは馴染みのない国に慣れない言葉、仕事を覚えるのに一生懸命で彼女のことを思い出すことは数日に一回程度だった。そんな中、何度か帰国したが時差ボケと会議の連続という余裕のなさで、彼女に会いに行く暇もうまいことしゃべる余裕もなくて顔も見ずに勤務地に戻った。どうせすぐに戻るのだし、俺以外の誰かがたった一年で鈍い彼女の心を射とめるなんて思えないと自分に言い聞かせ、仕事に慣れてきた一年目の後半は彼女に再会することだけを目的に日々努力した。
 その努力が実を結んだのが悪かったのか、一年の予定が二年に延びてますます忙しくなり、俺は自分の頑張りを呪った。二年目の半ばで一度帰国したが、やはり時差ボケに苦しみつつ会いたい一心で社食で彼女の姿を探したが不発だった。時差ボケが直った後よくよくカレンダーを確認すると彼女が締めで忙しい時期だったと気付いて愕然とした。
 すっかり仕事にも慣れた頃には、色々思いを巡らせる余裕が出てきた。そのために年齢的に彼女はもう他にいい人を見つけたのではないかと考え始めてしまう。告白をしそびれたものだから女々しく彼女のことを引きずっていたが、いつまでもそういうわけにいかないと他に目を向けてみた。だが国際結婚する気もなく彼女以外に社内恋愛をしてもいいと思える相手もおらず結局思い切れなかった。
 さらに二度ほど帰国の機会に恵まれたが、真実を知ることが怖くて社食にも経理にも足を向けることが出来なかった。勤務地では現実を知って振り切らねばと思うのに、帰国すると怖くなってしまったのは想いが深かったからだと思う。彼女のことを考えないように、それまで以上に仕事に力を入れた。
 これが最後だからと、滞在が三年に延びた。この頃には達観した境地に至っていた。相変わらず諦めきれなくて彼女はガードが堅い上に相当鈍いから、簡単に恋人なんて出来ないと言い聞かせるのが日課になった。お見合いであからさまにアピールされたらその限りじゃないと思いついてからは――年齢的にありえないことはないと思った――荒れかけたが、暴れるかわりに寝食を忘れるような勢いで仕事に没頭した。
 帰国日が決まり引き継ぎも終わって手が空くと、日々帰国後のことを夢想するようになった。彼女はまだいるだろうか。寿退社をしていても嫌だが、在籍していても左手に指輪をしていては嫌だ。暗くなる想像は鬱になるので、彼女がまだ在籍していて指輪もしていないようだったらとにかく告白しようと決めた。
 仮に結婚していても真面目な彼女が仕事中にちゃらちゃらと指輪をするとは思えないと思ったが、却下。彼女が俺のことを忘れている可能性が否定できないと思ったが、却下。とにかく出会った時に彼女の指に何もなければ想いのたけを告げようと。駄目な時のことを考えず出来る限り明るいイメージを脳裏に描いたらその通りになると自分に言い聞かせつつ、日々をカウントダウンして過ごした。

2008.10.31 up
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

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